また同時期に中東戦線において編成されたコマンド部隊を以下に示す[9]。
第50コマンド部隊(英語版)(No. 50 Commando)
第51コマンド部隊(英語版)(No. 51 Commando)
第52コマンド部隊(英語版)(No. 52 Commando)
中東コマンド部隊(英語版)(Middle East Commando)
第10「国際」コマンド部隊は、占領地や敵国からの志願兵によって編成されていた[10]。同部隊は最大のコマンド部隊でもあり、フランス、ベルギー、ポーランド、ノルウェー、オランダ、そして第3X小隊(No. 3 (X) Troop)と呼ばれる部隊の将兵によって構成された。第3X小隊は「敵国人小隊」と通称されており、1944年には雑多小隊(Miscellaneous Troop)と改名されている。ナチス・ドイツの政策による何らかの迫害を受けて政治亡命を果たしたドイツ人やオーストリア人、東欧諸国出身者やユダヤ人などが同部隊に所属した[11]。
いくつかのコマンド部隊は当初から特定の任務に従事する旨が定められており、例えば第2コマンド部隊は落下傘を用いる空挺部隊としての活動が想定されていた。1940年6月、第2コマンド部隊は降下訓練を開始すると共に第11特殊空挺大隊(11th SAS Battalion)と改称され、最終的に第1空挺大隊(英語版)に再編された[12]。なお、この後に新たな第2コマンド部隊の編成が行われている[12]。その他のコマンド部隊はレイフォース(Layforce)と呼ばれる大編成に加えられ、中東戦線へと派遣された[13][14]。後のSASやSBSはこのレイフォースの生き残りを再編成したものだとされている[15][16]。第14「北極圏」コマンド部隊は北極圏における作戦を想定した特殊訓練を積んでおり、小型ボートやカヌーによる輸送船団襲撃を主任務とした[17]。第30コマンド部隊は情報収集を主要な任務としており、隊員は敵国文書の解読、捜索技術、解錠技術、捕虜確保技術、写真撮影、及び脱出などに関する訓練を受けていた[18]。第62コマンド部隊は小規模襲撃部隊(Small Scale Raiding Force)とも呼ばれ、55名の隊員は特殊作戦執行部(SOE)の指揮下に置かれていた。SOEと第62コマンド部隊が展開した作戦としては、西アフリカ沿岸に存在するスペイン領の孤島フェルナンド・ポー島にて行われたポストマスター作戦(英語版)などが知られる[19][20]。
1941年2月、コマンドスは再編成された。10個小隊規模だった各コマンド部隊の編成は、部隊本部と6個小隊による編成に改められた。各小隊は3人の将校と62人の兵下士官から構成される。この人数は強襲揚陸艇(英語版)(LCA)2隻分の搭乗可能兵員数に合わせたものである。また、新編成ではグレン型揚陸艦(英語版)1隻で2個コマンド部隊を、オランダ型揚陸艦(英語版)1隻で1個コマンド部隊を完全に搭載する事ができた[21]。小隊には1両の小隊長用車両、12両のオートバイ(内側車付6台)、2両の15cwt級トラック、1両の3トン級トラックが配備された。これらの車両は部隊の運営管理および訓練においてのみ使用することを想定しており、コマンド部隊の作戦行動に投入する事は意図されていなかった[22]。
1942年2月、イギリス海兵隊は独自のコマンド部隊編成に着手し、以下に示す9つのコマンド部隊が編成された[23]。