ブリットポップ
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それに対し、ブラー側が発売日を合わせニューシングル「カントリー・ハウス」を同じ8月14日に発売すると発表した。

どちらがチャート1位を獲得するかメディアはこの騒ぎを煽り立て、イギリスがこのシングル対決に大注目した。さらにはBBCニュースでも、この模様が「ビートルズローリング・ストーンズの再現」との報道がなされた。

大方の予想はブラーやや有利と見ていたが、その予想通り結果はブラーは27万枚、オアシスは22万枚とブラーの勝利に終わった(ちなみに、ブラーのシングルには2バージョンが用意されており、加えてオアシスの「ロール・ウィズ・イット」には何万枚かの集計ミスがあったことも後発覚した)。ガーディアン紙は、これに怒ったノエル・ギャラガーが「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにでもかかって死ねばいい」 とコメントしたと報道。ノエルは社会から大きな非難を浴びた[注 2]

しかし、オアシスの2nd『モーニング・グローリー』はイギリスのみならず、アメリカでも最高位4位を記録するなど、全世界で2200万枚を売り上げるヒットとなり、ブラーの『ザ・グレート・エスケープ』 から大勝利を収める。オアシスは、11月にはロンドンのアールズ・コートで、ヨーロッパの屋内ライブとしてはギネス記録である、2日間4万人を動員するライブを開催。さらに翌年の1996年MTVアウォーズ(EURO)でベストグループ賞を受賞し、8月にはロンドン郊外のネプワース公演にて2日間で25万人を集めるなど、イギリスのトップバンドとなった。

また1996年に入っても、ブリットポップ・ムーブメントは衰えることなく、次々と実力派の新人バンドがデビューしていった。『モーニング・グローリー』を蹴落として、デビューアルバム『エクスペクティング・トゥ・フライ』を全英1位に送り込んだブルートーンズ、平均年齢十代にしてメジャーデビューアルバム『1977』を全英一位に送り込んだ北アイルランド出身のアッシュ、インド志向を打ち出し、デビューアルバム『K』がオアシス以来の最速売り上げを記録したクーラ・シェイカーなどが代表的である。オアシスは96年にアメリカでも「ワンダーウォール」をヒットさせ、アメリカ進出に成功した。

その一方で、ムーブメントの影響もあってブリットポップ以前にデビューしていたバンドの再ブレイクも数多く見られた。ギタリストのバーナード・バトラー脱退後やや低迷していたスウェード、またメンバーのリッチー・ジェームスが失踪するというアクシデントに見舞われたマニック・ストリート・プリーチャーズ、レーベル移籍のトラブルから前作から4年もの空白期間を余儀なくされたオーシャン・カラー・シーンらは、それまでを大きく上回る商業的成功をみせている。
ブームの終焉

盛り上がりをみせたブリットポップ・ムーブメントであったが、明らかに実力不足のバンドがメディアによって持ち上げられることも少なくなく(いわゆるハイプ現象)、人々はそのブームに飽き始めていき、ムーブメントは徐々に下火になっていった。

そんな中ブラーは、1997年2月、セルフタイトルアルバム『ブラー』をリリース。極めてアメリカ志向の強いオルタナティヴ・ロックに接近を図ったアルバムに仕上がっており、デーモンは「ブリットポップは死んだ」と発言した。ブラーが自らブリットポップの終止符を打ったとも言われている[1]。またこの年の8月、オアシスが3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』をリリース[5]。イギリスで1位、アメリカで2位を獲得したが、その内容には大きな失望の声が上がり、辛口の評価を受けるなど、賛否両論を巻き起こした(後にノエルは「ビィ・ヒア・ナウ」は失敗作だったと発言し、2006年に発売されたベストアルバムには1つも収録しなかった[注 3])。1998年にはパルプの新作『ディス・イズ・ハードコア』もリリースされたが、これも暗い内容で期待したほど売れず、結局これらがブリットポップ・ブームの終息の象徴となっていった。

その後イギリスの音楽界は、スパイス・ガールズロビー・ウィリアムズなどの芸能人によるコマーシャルなポップスが人気を集めるようになり、ブリットポップ期にデビューしたバンドの多くは姿を消していった。また1990年代初頭に結成され、ブリットポップのブームの中で登場したバンド群とは異なる音楽性を持っていたレディオヘッドザ・ヴァーヴは、ブームの後に双方ともバンドの代表作となるアルバムをリリースしている。

同年にはブリットポップだけでなく、1990年代のオルタナティブ・ロックやポスト・グランジの影響を受けた音楽性を持つトラヴィスステレオフォニックスフィーダーといった新たなバンドがデビューし、2000年代にはメインストリームで支持されるようになった。これらのバンドは、ポスト・ブリットポップ(en:Post-Britpop)というカテゴリーに包括されている。
その後

ムーブメントが終わって消えていったバンドの中には、マリオン[注 4]のフィル・カニンガムがニュー・オーダーに加入したように、自分達よりも人気のあるバンドにスカウトされる者もいれば、スウェードのブレット・アンダーソンなどといった地味にソロ活動を続ける者、メンズウェアのサイモン・ホワイトとクリス・ジェントリーのように若手バンドのマネージャーを務める者、音楽業界から身を引き作家に転向したスリーパーのルイーズ・ウェナーのような者などもいた。

また、ゴリラズで世界的な成功を獲得したブラーのデーモン・アルバーン、ソロ・アーティストとして成功しているパルプのジャーヴィス・コッカー、人気歌手のダフィーなどを手掛け、元スウェードのバーナード・バトラーは売れっ子プロデューサーとなった。

ブリットポップ次世代の台頭や当時の音楽への再評価の機運を受けるように、2006年以降、多くのブリットポップ・バンドに再結成の動きが続いた。クーラ・シェイカーやシェッド・セヴンなどを皮切りに、ドッジー、マリオン、ノーザン・アップロアーなどの中堅ブリットポップバンドもブームに乗って再結成。


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