ブリスベン
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2032年ブリスベンオリンピック2032年ブリスベンパラリンピックの開催都市として注目されている[2][3]
歴史主要記事:History of Brisbane1920年代のブリスベン市内

現在ブリスベンとして知られている地域はヨーロッパ人が来るまでトレス海峡から移ってきた原住民であるアボリジニーのターバル(英語版)(Turrbal) と呼ばれる部族の人々が暮らしていた。彼らはこの地を "Mian-jin"(棘のような形をした土地)と呼んでいた。

1823年、ジョン・オクスレイ率いる探検隊がモートン湾ブリスベン川周辺の航海を行った。ブリスベン川では現在の市中心部から約20km上流にある現在のグーナ地区(Goodna)にまで川を溯っている。

1824年ニューサウスウェールズ植民地政府は現在のレッドクリフ地区(Redcliffe)のモートン湾に面する海岸に流刑植民地を設立。しかしながらこの流刑地は一年で放棄され、安定した水の供給を求めて南に位置するブリスベン川の半島(現在の市中心部)に流刑地を移動した。

1838年、一般のヨーロッパ人の入植が始まる。

1840年、ロバート・ディクソンがブリスベン街の第一次開発プランを開始する。

1859年6月、クイーンズランド州はNSW州より分割した植民地であると宣言し、ブリスベンを州都に決める。しかしながら正式に市として承認されるのは1902年であった。

1925年には20以上の地方自治体行政区が合併し大ブリスベン市を形成し、ブリスベン市役所が合併した地区の行政を行う。

第二次世界大戦中にはブリスベンにはアメリカ軍が駐屯し連合国軍の太平洋南西部での活動の中心的な役割を担い、AMPビルディング(現在のマッカーサーセントラル)には連合国太平洋司令官 ダグラス・マッカーサー により連合国軍太平洋司令部が置かれた。当時およそ100万人のアメリカ軍部隊がオーストラリアに駐屯し、太平洋南西部での行動の拠点となった。

クイーンズランド大学セントルシアキャンパスも最後の3年間は兵舎になり、サウスブリスベンのセント・ローレンスカレッジも町の見晴らしが良いことで兵舎になった。その間Greenslopesで授業があった。ニューステッド・ハウスも戦時中にアメリカ軍によって使用されていた。1942年にオーストラリア兵とアメリカ兵が市内で争ったブリスベン騒乱事件が発生している(Battle of Brisbane)。

1974年には市内を流れるブリスベン川が氾濫を起こし川に隣接する地区は甚大な被害を受けた。ブリスベン川は1864年1893年1897年にも氾濫を起こしており、74年の氾濫後、市は対策を施しそれ以来現在まで氾濫は起きていない。これらの洪水により被害を受けたブリスベンシティー植物園を、マウント・クーサの麓に新たに植物園を建設した。

1982年にはコモンウェルス・ゲームズ(イギリス連邦競技大会)が、1988年には国際博覧会(World Expo 88)が開催され成功を収めた。

2011年2022年には再び大規模な洪水が起こり、郊外に甚大な被害をもたらした。

現在国内外から移民を受け入れ、オーストラリアで最も人口増加率の高い都市の一つであり急速に発展している。
歴史上の著名なブリスベン出身者

ピーター・ドハーティー、医学研究者及びノーベル賞受賞者

ビル・ハイドン、元オーストラリア総督

チャールズ・キングスフォード・スミス、飛行士のパイオニア、1928年に彼の飛行機「サザンクロス」で初めて太平洋を横断した。

エンマ・ミラー労働運動家、参政権運動家のパイオニア


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