ブランデンブルク門
イギリス軍のバーナード・モントゴメリー元帥が、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥、コンスタンチン・ロコソフスキー元帥、ワシーリー・ソコロフスキーらと歩く
1945年7月、門の廃墟の前で給食を受けるイギリス軍
廃墟となったまま赤旗が建てられていたブランデンブルク門(1956年)
再建中の門(1957年)。看板の手前は西ベルリン
1961年8月14日、東西ベルリン境界で始まった鉄条網設置を見物に集まった西ベルリン市民
ベルリンの壁建設(1961年秋)
西ベルリンから見た壁の向こうのブランデンブルク門(1963年)
1984年の東ベルリンで、立入禁止の柵の手前から門を見る観光客
1987年、西ベルリン側から見た門。壁のため近寄れない
1987年6月、ベルリンの壁とブランデンブルク門と東ベルリンを背景に演説する、アメリカ大統領ロナルド・レーガン
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊直後に門の前の壁に上った人々
ベルリンの壁崩壊後の1989年12月21日 門の前の壁は撤去された
1989年12月22日 ブランデンブルク門開放記念式典の東西ドイツ首脳
2015年11月のパリ同時多発テロ事件後、哀悼の意を込めてフランス国旗色に夜間ライトアップがなされた
2016年3月のベルギー爆破テロ事件後も同じく哀悼の意を表する国旗のライトアップが行われた
同名のブランデンブルク門ブランデンブルク州の州都ポツダム、メクレンブルク=フォアポンメルン州の小都市アルテントレプトウにも、それぞれ同名のブランデンブルク門が存在する。ポツダムのブランデンブルク門
(ドイツ語版)は七年戦争の戦勝記念碑として1771年に落成した。一方、アルテントレプトウのブランデンブルク門(ドイツ語版)は15世紀頃に建てられ、当時の城塞都市の一部であった。
脚注[脚注の使い方]^ “デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年5月12日閲覧。
^ 平井正「ブランデンブルク門」大修館書店『言語』11月号、第20巻、第11号、1991年11月1日、24‐25頁。
^ “独ブランデンブルク門に塗料 環境団体が抗議行動”. AFPBB News (2023年9月18日). 2023年9月18日閲覧。
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⇒ブランデンブルク門
ドイツ観光局公式サイト - ブランデンブルク門
⇒Brandenburg Gate described in its historic context.
⇒ブランデンブルク門付近のパノラマ
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