ブランデンブルク門
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さらに門の上には、彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(Johann Gottfried Schadow)が制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗せられた。ナポレオンとブランデンブルク門

もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場(四角形広場の意)はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。
第二次大戦後ベルリンの壁建設前のブランデンブルク門(1959年)

ブランデンブルク門はベルリン市街戦で損傷し廃墟となった。第二次世界大戦後は東ベルリン西ベルリンとの境界線が門のすぐ西側に引かれ、門は東ベルリン側になった。門は1957年に東ベルリンにより修復されたものの、ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1961年8月13日に東ドイツが国民流出を防ぐため西ベルリンとの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁(境界線)が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。

1989年ベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となっている。また、ドイツ東西の分離と統合のシンボルとしてドイツのユーロ硬貨(10・20・50セント)の裏面に彫られている。

2023年9月17日気候変動の抑制を訴える環境保護団体ラスト・ジェネレーションのメンバーが抗議行動の一環で、門のうち6本にオレンジ色の塗料を吹き付ける事件が発生した[3]
ギャラリー

パリ広場と門の風景

門の内側の神マルス

門の内側の女神ミネルウァ

門の上のクアドリガ

1764年の古いブランデンブルク門

1871年、普仏戦争後のパレード

ヒトラー50歳の誕生日を祝ってパレードを行うナチス親衛隊

市街戦後の1945年6月。廃墟となったパリ広場と門

1945年7月、式典後に門の前を歩く連合国軍の将軍たち。イギリス軍のバーナード・モントゴメリー元帥が、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥、コンスタンチン・ロコソフスキー元帥、ワシーリー・ソコロフスキーらと歩く

1945年7月、門の廃墟の前で給食を受けるイギリス軍


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