ブランデンブルク統治者の一覧
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ヴェンツェル1373年10月2日1378年11月29日神聖ローマ皇帝カール4世はオットー7世から選帝侯の地位を買収して息子のヴェンツェルに授けた。ヴェンツェルは未だ幼かったので(1361年生まれ)、父帝が実権を握った。
ジギスムント1378年11月29日1388年ヴェンツェルの異母弟で、ローマ王ボヘミア王となった兄の優位を認める形でブランデンブルクを統治した。己の上位を認める形でブランデンブルクを従弟のヨープストに譲渡した。
ヨープスト1388年1411年1月16日ヴェンツェルとジギスムントの従弟でカール4世の甥。1410年にジギスムントの対抗馬としてローマ王に選出されるも、ほどなく死去した。
ジギスムント1411年1月16日1415年4月30日ヨープストの死により単独のローマ王になり、再びブランデンブルクの統治者となった。
ホーエンツォレルン家
肖像画名前統治開始統治終了備考
フリードリヒ1世1415年4月30日1440年9月20日元はニュルンベルク城伯。ジギスムントによって1415年にブランデンブルク選帝侯位を指名され、1417年に授けられた。長男のヨハン1425年から1437年にかけて辺境伯としてブランデンブルクを統治したが、フリードリヒ1世は選帝侯位を保持したままであった。
フリードリヒ2世1440年9月20日1471年2月10日フリードリヒ1世の次男。「鉄歯公」と呼ばれた。1437年からブランデンブルクを統治し、1440年の父の死により選帝侯となる。
アルブレヒト・アヒレス1471年2月10日1486年3月11日フリードリヒ2世の弟。
ヨハン・ツィーツェロ1486年3月11日1499年1月9日アルブレヒト・アヒレスの息子。
ヨアヒム1世ネストル1499年1月9日1535年7月11日ヨハン・ツィーツェロの息子。弟のマインツ選帝侯アルブレヒトと1499年から1513年まで共同統治。しかしヨアヒム1世だけが選帝侯だった。
ヨアヒム2世ヘクトル1535年7月11日1571年1月3日ヨアヒム1世の息子。プロテスタントに改宗した最初のブランデンブルク選帝侯。
ヨハン・ゲオルク1571年1月3日1598年1月8日ヨアヒム2世の息子。
ヨアヒム・フリードリヒ1598年1月8日1608年7月28日ヨハン・ゲオルクの息子。
ヨハン・ジギスムント1608年7月28日1619年11月3日ヨアヒム・フリードリヒの息子。1618年以降はプロイセン公を兼ねる。
ゲオルク・ヴィルヘルム1619年11月3日1640年12月1日ヨハン・ジギスムントの息子。三十年戦争期間中に統治。兼プロイセン公。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1640年12月1日1688年5月9日ゲオルク・ヴィルヘルムの息子。「大選帝侯」と呼ばれた。兼プロイセン公。
フリードリヒ1世1688年5月9日1713年2月25日フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子。1701年に「プロイセンの王」フリードリヒ1世として即位。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世1713年2月25日1740年5月1日フリードリヒ3世の息子。兼プロイセンの王。「兵隊王」と呼ばれた。
フリードリヒ2世1740年5月1日1786年8月17日フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の息子。西プロイセン併合後の1772年に「プロイセン国王」となる。「フリードリヒ大王」と呼ばれた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世1786年8月17日1797年11月6日フリードリヒ4世の甥。兼プロイセン国王
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世1797年11月6日1806年8月6日フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の息子。1806年に神聖ローマ帝国が崩壊すると、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は1840年の死までブランデンブルクを含む独立したプロイセン王国の国王となった。

以後はプロイセン統治者の一覧を参照。
第二次世界大戦後「連合軍軍政期 (ドイツ)」、「ドイツ民主共和国」、「ブランデンブルク州 (1945年-1952年)」、および「ブランデンブルク州」も参照


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