グレッグの次の旅団、ジャドソン・キルパトリック大佐が率いる部隊がブランディステーションの東に回り込みフリートウッドヒルの南端と東斜面に攻撃を掛けると、その登場がハンプトン旅団の到着と時を同じくすることになった。丘の上を混乱した突撃や反撃が何度も行ったり来たりした。南軍が最終的に丘を制し、3門の大砲を捕獲し、北軍騎兵隊に近距離から援護射撃を行っていた第6ニューヨーク軽装歩兵連隊36名中30名の損失を出させた。ダッフィー大佐の1,200名という小さな師団はステーブンズバーグ近くで南軍の2個連隊のために遅らされ、戦場にかなり遅く到着したので戦闘に影響を及ぼせなかった[16]。
ジョーンズとハンプトンがフリートウッドヒルで戦うために当初の陣地から退く一方、ルーニー・リーはビュフォード隊と対戦し続け、丘の北端に後退した。ルーニー・リーはフィッツフュー・リーの旅団に支援されてビュフォード隊に対する反撃を始めたその時に、日没が近かったためにプレソントンは全軍退却を命じ、10時間に及ぶ戦闘が終わった[17]。
戦闘の後ブランディステーションは北軍騎兵を「作った。」この時まで明らかに南軍の騎兵に劣っていたが、この日に兵士達とその指揮官たちは自信を獲得し、その後に続く戦場で激しく競い合うことを可能にした。スチュアートの副官、ヘンリー・B・マクレラン少佐[18]
北軍の損失は907名(戦死69名、負傷352名、不明だが主に捕虜486名)だった。南軍の損失は総数で523名だった[2]。この戦争では最大の騎兵主体の戦闘に両軍併せて約20,500名が参戦した。損失の中には太腿に重傷を負ったロバート・E・リーの息子ルーニー・リーが含まれていた。ルーニー・リーはハノーバー・コートハウスに近い農園、ヒッコリーヒルに送られ、そこで6月26日に捕虜となった。
スチュアートはこの戦闘で終日戦場を保持し、プレソントンの攻撃を撃退したので、南軍の勝利と主張した。南部の新聞はこの結果について一般に否定的だった。「リッチモンド・エンクワイアラー」紙は「スチュアート将軍が先の敵の壮挙によって世評に訴えることは無かった」と書いた。「リッチモンド・イグザミナー」紙はスチュアートの指揮が「得意になった騎兵」であり、「手抜きと悪い管理のなせる業」と表現した[19]。
プレソントンの部下の士官たちはブランディステーションで攻撃的にスチュアート軍を打ち破らなかったことで批判した。フッカー少将はプレソントンに南軍騎兵隊をカルペパー近くで「追っ払い破壊する」ことを命じたが、プレソントンは「カルペパー方面の威力偵察」を行うことを命じられただけだと主張し、その行動を合理化していた[20]。
南北戦争では初めて、北軍の騎兵隊が技術を決断力で南軍と対等になった。スチュアート軍が2度も急襲を受けたという屈辱は騎兵隊に起こってはならないこととされており、ゲティスバーグ方面作戦のその後でスチュアートを待ち受ける当惑させるような事項の前兆となった[21]。 ブランディステーション基金はブランディステーション戦場跡を開発から保護するために作られた。クラーク・B・ホールに拠れば、「小さな市民集団がカルペパーの東部ラッパハノック川の直ぐ南にある小さな家でコーヒーを飲みながら集まった。」時の経過とともにこの集まりが400人以上の会員を持つものに成長し、ビジネスパークや競馬場に変えようという試みから戦場跡を救うことやまたグラフィティハウスと呼ばれる歴史的建造物の保存の運動の基礎になってきた。1990年、アメリカ合衆国国立公園局がブランディステーションにおける歴史資源の地図を完成し、4つの異なる戦闘場所で1,262エーカー (5.1 km2)の保存を推薦した。 2008年、南北戦争保存信託がブランディステーション戦場跡でフリートウッドヒルの上に23エーカー (92 ha)の保存運動を始めた[22]。その後南北戦争保存信託はフリートウッドヒルに次の26エーカー (104 ha)の土地を取得した[23]。その発端以降もブランディステーション戦場跡で973エーカー (3.9 km2)の保存を働きかけている[24]。
戦場跡の保存
脚注^ ⇒NPS
^ a b c Eicher, p.493.
^ ⇒Brandy Station Foundation Archived
^ Coddington, pp. 64-65; Sears, p. 74; Clark, p. 22; Loosbrock, p. 274; Wittenberg and Petruzzi, p. xviii.
^ Salmon, pp. 193-94; Loosbrock, p. 272.