1942年後半、ショートの母は死亡したと思われていた夫から謝罪の手紙を受け取った。手紙には、夫は実は生きており、カリフォルニアで新しい生活を始めたと記されていた[15]。1942年12月、つまり18歳のとき、ショートは6歳のときから会っていなかった父と一緒に暮らすため、ヴァレーホへ転居した[16]。当時、父はサンフランシスコ湾のメア・アイランド海軍造船所の近くで働いていた。しかし、ショートと父との間で口論が起こり、1943年1月にショートは父の元を立ち去った[17]。それから間もなく、ショートはロンポクの近くのキャンプ・クーク (現在のヴァンデンバーグ空軍基地) の酒保で仕事を見つけ、数名の友人と一緒に暮らした。短い間、陸軍航空軍の下士官と一緒に暮らしたこともあったが、その人物はショートを虐待していたと言われている[17]。1943年中頃にショートはロンポックを離れてサンタバーバラへ転居した。その地では、1943年9月23日に地元の酒場で未成年飲酒で逮捕されている[18]。ショートは少年犯罪ということで当局によりメドフォードへ送還されたが[注釈 3]、結局フロリダへ戻った。マサチューセッツへはときどき来るだけだった[21]。
ショートはフロリダにいる間、マシュー・マイケル・ゴードン・ジュニア (英: Matthew Michael Gordon, Jr.) 少佐に出会った。ゴードンは第2航空遊撃隊(英語版)の陸軍航空軍将校であり、叙勲を受けている。第二次世界大戦の中国・ビルマ・インド戦域(英語版)への配置に向けた訓練を受けていた。ショートは友人に、ゴードンがインドでの飛行機の墜落の負傷で療養している間に結婚を申し込む手紙を送ってきたと語った[22]。ショートはゴードンの求婚を受け入れたが、ゴードンは1945年8月10日の2度目の墜落で死亡した。それから1週間足らずで日本が降伏して戦争は終わった[23]。
ショートは1946年7月にロサンゼルスへ転居し、陸軍航空軍のジョセフ・ゴードン・フィックリング (英: Joseph Gordon Fickling) 中尉の元を訪れた。フィックリングとはフロリダで知り合っていた[24]。フィックリングはロングビーチにある海軍予備航空基地に配属されていた[25]。ショートは人生の最期の6ヶ月を南カリフォルニアで過ごし、そのほとんどをロサンゼルス地域で過ごした。死の直前、ショートはウェイトレスとして働いており、ハリウッド大通りにあるフロレンティン・ガーデンズ・ナイトクラブの裏の部屋を借りていた[26]。ショートは女優志願者、もしくは「えせ」女優として様々に描写されている[27]。いくつかの情報源によれば、ショートには本当に映画スターになるという大望があったと描写されている[28]が、女優の仕事をしていたかは不明である[注釈 4]。 1947年1月9日、ショートはサンディエゴへの短い旅行の後にロサンゼルスの自宅へ戻った。旅行には、ショートが交際していた25歳の既婚者のセールスマンのロバート・M・"レッド"・マンリー (英: Robert M. "Red" Manley) と一緒だった[26]。マンリーによれば、マンリーはダウンタウンのサウス・グランド・アベニュー 1947年1月15日の朝、ロサンゼルスのレイマート・パークのコリシアム・ストリートとウェスト39番ストリートの中間にある、サウス・ノートン・アベニューの西側の空地で、2つに切断されたショートの半裸の遺体が発見された。当時、近隣はほとんどが未開発だった[31]。午前10時頃、3歳の娘と一緒に歩いていた地元の住民のベティ・バーシンガー (英: Betty Bersinger) が遺体を発見した[32]。バーシンガーは最初、マネキンが投棄されていると思った[33]。それが死体だと気付くと、近隣の家へ駆け込んで警察へ通報した[34]。 ショートの遺体は腰の部分で完全に切断されており、血液が全て抜かれていた。肌は青ざめた白色になっていた[35][36]。監察医は、ショートは遺体として発見される約10時間前に死亡したと断定し、死亡時刻は1月14日の夜または1月15日の早朝とした[33]。遺体は明らかに洗い清められていた[37]。また、口角から耳までが切り裂かれ、いわゆる「グラスゴー・スマイル」になっていた[31]。腿や胸にも数箇所に切られた傷が見られ、その部分の肉は全体的に薄くスライスされていた[38]。遺体の下半身は上半身から足が遠くなる向きで置かれ、腸は臀部の下に完全に押し込まれていた[37]。遺体は両手が頭の上に置かれ、両肘が直角に曲げられ、両脚は広げられていた[33][36]。 遺体が発見されてすぐに、通りすがりの人や記者たちが集まり始めた。ロサンゼルス・ヘラルド・エクスプレス
殺人事件
殺人事件発生前
遺体の発見
検死と身元特定