アロノフスキーは、『レスラー』と『ブラック・スワン』は元々一つの企画であったことから、これらを姉妹編と呼んでいる。彼は結局、「一つの映画にするにはあまりに多い」ため、レスリングとバレエの世界を切り離した。彼は2本の映画を比較し、「ある者はレスリングは最低の芸術と言い、またある者はバレエを最高の芸術と呼ぶ。しかし、私にとって驚くべきことは、これらの世界両方のパフォーマーがいかに似通っているかである。どちらでも、パフォーマー自身の身体を信じられないほど使って何かを表現している」と語った[6]。『ブラック・スワン』のサイコスリラーの要素について、女優のナタリー・ポートマンは、ロマン・ポランスキーの1969年の映画『ローズマリーの赤ちゃん』と比較した[7]が、アロノフスキーはポランスキーの『反撥』(1965年)と『テナント/恐怖を借りた男』(1976年)が最終的に映画に「大きな影響」があると語った[6]。また、俳優のヴァンサン・カッセルは、ポランスキーの初期作品、さらに、デヴィッド・クローネンバーグの初期作品と『ブラック・スワン』を比較した[8]。
2010年にアロノフスキーは自身へのインタビュー上で、1998年のアニメ映画『パーフェクトブルー』と『ブラック・スワン』の類似性を指摘された影響は無いと述べたが[9]、その後に今敏から飛行機内で話す時間が出来た際に今から「明らかにパクリなシーンがありますよね?パクリじゃないですか?」と質問され「それはオマージュですから」と弁明した事があり、今は「オマージュって便利な言葉だな」と不快感を示している[10]。アロノフスキーは以前、『レクイエム・フォー・ドリーム』でバスタブのシーンを再創造するために『パーフェクトブルー』のリメイク権を購入し、また2001年に同映画の監督である今敏と対談を行っていた[11]。また今敏死後に発売された書籍『今敏アニメ全仕事』に哀悼のコメントを寄せている。
企画と撮影撮影が行われたニューヨーク州立大学パーチェス校の演技芸術センター
脚本がまだ執筆されていない2000年頃、アロノフスキーとポートマンは初めてバレエ映画について議論をした[6]。アロノフスキーは競合するバレエダンサーとのラブシーンに関してポートマンに話し、そして彼女は「私は、この映画がとても多くの方法で自分ともう一人の自分への芸術家のエゴとナルシズム的なかなりの魅力を探究していて、それが非常におもしろいと思った」と振り返っている[12]。アロノフスキーが『ブラック・スワン』の詳細なアウトラインをユニバーサル・ピクチャーズに提案した2007年1月、スタジオはプロジェクトを企画第一段階へと進めた[13]。プロジェクトは同スタジオではまとまらず、そしてアロノフスキーは代わりに『レスラー』を撮った。2008年に『レスラー』を撮り終えた後、彼はマーク・ヘイマンに『ブラック・スワン』を執筆するように依頼した[6]。2009年6月までにユニバーサルはプロジェクトをターンアラウンドに置くが、ポートマンが主演することは決まっていたため、他のスタジオと専門部門から注目を浴びた[14]。『ブラック・スワン』はプロトゾア・ピクチャーズとオーバーナイト・プロダクションズの融資提供の下で企画が進められた。2009年7月、キュニスの出演が決まった[15]。
フォックス・サーチライト・ピクチャーズは『ブラック・スワン』が配給し、1000万から1200万ドルの製作予算を与える。主要撮影はスーパー16mmカメラを使って行われ、ニューヨーク市で2009年の終わりに向けて始まった[16][17]。撮影の一部はニューヨーク州立大学パーチェス校の演技芸術センターで行われた[5]。アロノフスキーは『レスラー』と同じく、ミュート・パレットと粗粒子を用いて『ブラック・スワン』を撮影した[18]。 エイミー・ウェストコット
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