ブラックマンデー
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これらの通貨を機関投資家は一挙に買収する準備を整えた。そしてブラックマンデーの2か月前にFRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれた。

また、ブラックマンデー直前の1987年10月15日にはイラン・イラク戦争アーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受け、ミサイルを被弾する出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に持っていた石油プラットフォーム2基を爆撃(ニムバル・アーチャー作戦)し、原油市場に対する不安が沸き起こっていた。
影響

ブラックマンデーの当日は、香港市場から暴落が始まりヨーロッパからアメリカに波及した。

ニューヨーク証券取引所ダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がりこの時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。これが翌日アジアの各市場に連鎖。日経平均株価は3,836円48銭安(14.90%)の21,910円08銭と過去最大の暴落を起こした[1]。欧州の各市場でも機関投資家の売り注文が殺到、世界同時株安となった。

1987年10月末までに香港(45.5%)、オーストラリア(41.8%)、スペイン(31%)、イギリス(26.45%)、アメリカ(22.68%)、カナダ(22.5%)で株式市場が下落し続けた。

ニュージーランド経済への損害は特に打撃を受け1987年のピークから約60%下落、高い為替レートと、危機に対応したニュージーランド準備銀行が金融政策を緩和することを拒否したことにより悪化した。

1987年12月にワシントンD.C.でさまざまな国から集まった33人の著名なエコノミストが集まり、「今後数年間は1930年代以来最も問題になる可能性がある」と総括的に予測した。

日経平均株価については翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である[1]。金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年(昭和63年)4月には下落分を回復。すでに1986年頃に始まっていたバブル景気は更なる膨張を続け、1989年平成元年)12月29日には史上最高値(38,957円44銭)を付けることになる。海外の機関投資家にとって日本株は売り対象ではなく、買収の対象だったのである。

トルコを含む東欧諸国は、外貨準備を充実できないまま株安で火の車となった。
脚注[脚注の使い方]
出典^ a b “日経平均プロフィル” (html). 日本経済新聞社. 2020年3月10日閲覧。(現在は2004年以降のデータしか参照不可)

関連項目

アーネスト・ウィル作戦#作戦

イラン・イラク戦争#アメリカの介入

ウルフ・オブ・ウォールストリート

ブラックフライデー

外部リンク

“1987年10月19日 ブラックマンデー “幽霊”から市場救え”
. 東京新聞. (2007年10月18日). ⇒オリジナルの2016年8月31日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/NGgAI 2020年3月20日閲覧。 

ニューヨーク株式大暴落 - NHK放送史










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