ブラックマヨネーズ
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それをきっかけに吉田が小杉を誘う形で1998年にコンビを結成した。小杉がコンビを解散してから、小杉の母親が「アンタ、吉田君と組み」ときっかけを作った。吉田が小杉にコンビ結成を頼みに行った際、吉田は母親の軽自動車を借りて小杉宅へ行ったが小杉宅には高級車が止まっており、「こいつ、すぐに芸人に見切りをつけるんちゃうか?」と心配した吉田は「コンビ解散を切り出したら3,000万円支払う」という誓約書を小杉に書かせようとした[1]。その発言の後、吉田によるコンビ結成のプロポーズに小杉がOKを出した。また、2009年に小杉が『やりすぎコージー』(テレビ東京)にて明かしたところによると当時吉田とコンビを組んでいた和田義浩が、小杉は自分を気遣って吉田とコンビを組むことを躊躇しているのだろうと考え、自ら小杉に吉田とコンビを組むよう説得していた。番組で小杉がその話をするまで、吉田はそのことを全く知らなかった。和田は2015年現在では放送作家へ転身、ブラマヨを裏方として支えている[2]

2005年12月25日の『M-1グランプリ2005』において、3378組の中で優勝を果たした。だが当時は既に関西での仕事を抱えており、他のM-1優勝コンビに比べて優勝後の全国ネットでのメディア出演が少なかった。2007年頃からはキャラも浸透し始めて少しずつ全国区でのテレビ出演が増え、M-1王者には珍しい「時間差ブレイク」を起こした[3]。ただし2人はこの見方に対してやや否定的で、「関西での仕事ばかりしていただけ」「自分達では全力疾走してたけど周りからは歩いているようにしか見えてなかったのかも」と振り返っている[4]

東京に家を借りるなど、本格的な東京進出はコンビ結成から10年の節目である2008年になってからだった。共に将来的には大阪に家を購入し、拠点を大阪へ戻したいと考えている。ただしそのタイミングは決めておらず、東京のテレビに需要のある限りは今の状態を続けたいと話している。吉田は「大阪の漫才文化が好き」「庭付きの家が欲しいが東京の地価はおかしすぎる」等の理由を挙げている[5]。同年12月29日放送『ネプリーグ年末SP』(フジテレビ)ではゲスト(よしもと芸人)チームとして参加、優勝を果たした。また、ボーナスステージのトロッコアドベンチャーでも一度100万円を獲得している。

吉田は一度もコンビを解散しようと思ったことはない。小杉はブラマヨとして初の単独ライブへ向けた練習中、吉田からの指示が細かく日によって変化することに嫌気が差し、「このライブ終わったら解散しようかな」と一度だけ考えた。しかし指示通りにやったライブのウケが良かったため、思い止まったという[6]

エピソード
コンビ名の由来

コンビ名の由来は、Mr.Childrenのように正反対でアンバランスな意味の単語を組み合わせたもの。マヨネーズという身近なものの名前を入れることで、「マヨネーズを見るたびに自分たちのことを思い出してくれたら」という思いも込められている。ただし当初はこの名前を吉本へ申請した際、「ブラック」はイメージがいまいち良くないとして一時保留扱いとなっていたが同時期にブラックビスケッツのヒットがあったため、イメージが払拭されて申請が通った旨を明かしている[7]
大阪時代

M-1優勝前の大阪時代には8か月無休で仕事があったが、月の給料が25万円程度だった月が2回あったと述べている
[8]

下積みが長く、何組もの後輩がブラマヨより先に売れていた。『新しい波8』(フジテレビ)のオーディションを受けるも不合格となり、同番組に合格した後輩のキングコングインパルスに対して「あいつら顔だけで選ばれたんや」と毒付いていた。しかし吉田が堤下敦(インパルス)と初めて会った際、「(後輩だけど)テレビに出てる人や」と怖気付いて何も言えなかった。この件で考えを改めた吉田は小杉へ「俺らいつまでも後輩の悪口言ってる場合とちゃうぞ。まずはテレビに出な何もならへん」と発破をかけ、コンビとして前向きな姿勢を持つようになった[9]

吉田が先輩で、コンビ揃って同じテレクラでバイトしていた[10]

お笑いDVD『ブラックマヨネーズの∞無限大番長』より同じアパートの別の部屋に住んでいた。入居を決めた際、4階と5階に1つずつ空き部屋があったがそのアパートにはエレベーターがなく、「吉田はいつもネタを考えてくれたりして大変だから、せめて1階分の上り下りだけでも楽をさせたい」と小杉は自ら進んで5階を選んだ。吉田はそのことに感謝しているという。理由として当時既にビッグネームであったダウンタウンとんねるずの「相方の電話番号を知らない」「相方とはビジネスパートナーの関係」という発言を格好良いと受け止める風潮が若手芸人の中にはあったが、ブラマヨは「ダウンタウンさんやって若手の頃は、2人で濃密な時間を過ごしていたはずで、だからこそ今がある。売れた後の発言を聞いて上辺だけを真似するのは違う」と考え、いつでもネタ合わせができるようにするためと述べている。

小杉は東京での仕事が増え始めた頃からと引っ越しを考えていたが、吉田の「まだや」という考えの下で東京ではホテルの連泊を続けていた。当時大阪の吉本芸人が宿泊していたホテルアイビス六本木には100泊以上したと言っている[11]

M-1グランプリ

2005年になってからはネタのスタイルと作り方を一新、「ラジオのように2人で喋りながらネタを作りたい」という吉田の提案によって、それまで吉田1人でやっていたネタ作りを2人で1から行うようになった。これが功を成してか、同年のM-1グランプリで決勝進出を果たす。

決勝戦で披露した2本のネタは半年以上前の2月ごろに出来上がっていたが、ネタの鮮度を保つため封印していた。春先の漫才特番では、我慢できず腕試しも兼ねて一度だけ披露したものの後はそのネタを封印し続け、M-1決勝で満を持してのお披露目だった。

決勝ファーストラウンドでは直前の出番だった
チュートリアルが演じた「バーベキュー」で審査員の松本人志(ダウンタウン)から絶賛され、吉田は「死ぬほど羨ましかった」という。小杉は舞台袖で人のネタを聞くのが嫌いなため、控え室で見ていた。ブラックマヨネーズは5番手で登場し、「ボウリングの球の扱い方」を披露。王道だがオーソドックスな漫才の強さ、ネタの完成度が高評価されファーストラウンドを1位で通過。大竹まことから「あまりオーソドックスは好きじゃないけど、オーソドックスの凄さにびっくりした。別に新しいことをやらなくても十分面白いんだと再認識しました」、島田紳助からは「4分の使い方、抜群。4分の使い方に感動したね。噂は聞いてたけど、ほんまに凄かったわ。昔、僕の番組の前説来てくれてたからよう見てたんやけど、ほんまに成長してるし、4分の使い方上手い」と称賛された。最終決戦は3番手を選び、「喧嘩の強い男を目指そう」を披露。7人中4票を獲得して優勝を掴み取った。彼らの登場以後、4分間をいかに上手く使うかがM-1で勝つための重要なポイントになった[12]

1本目のネタ中に小杉は喉の奥から「膿栓(俗称・臭い玉)」が飛び出してしまい、思わず口からも飛び出そうになった。「口から玉が出たらお客さんの気が散る」「玉が潰れたら異臭騒ぎになる」と咄嗟の判断により舌を使っての裏に隠し、出番終了後に膿栓を吐き出し舞台の裏に置いて事なきを得た[13][14]

優勝インタビューで吉田の「結果求めんとやったのがよかった」というコメントが、誤って「結果求めてやったのがよかった」と新聞に載ってしまった[要出典]。

2006年度以降のM-1には、「今の環境では自分たちの納得できる漫才を披露することはできない」という理由から出場を辞退している[要出典]。

評価

松本人志はラジオ番組『
放送室』(TOKYO FM)にて、彼らが出演していたフジテレビのネタ番組を観て「あいつら楽しんどるもんなー。技術、才能はもちろん必要やけど、本人らが楽しんどるかどうかが大きい。ブラマヨばっかり誉めて申し訳ないけど、やっぱ面白い」「あの漫才スタイルはやろうと思ってできるものやない。きっと自然にああいう形になったんやと思う。乗ってたわ」と賞賛した。またダウンタウンに影響されたコンビが多い中で、ダウンタウンの影響を受けなかった点も評価している(ただし、小杉のツッコミは浜田雅功(ダウンタウン)からの影響を受けている)。それに対し、放送作家の高須光聖も「何度見ても笑える漫才」と絶賛[15]。また、M-1優勝後の放送回ではM-1時のメンバーの風貌(彼曰く「汚い、華がない」)が若手時代のダウンタウンによく似ていると語り、松本は「あそこまでひどくないやろ」と苦笑している。

ビートたけしは気に入っているお笑い芸人としてブラマヨの名前を挙げ[16]特に雛壇芸人としての彼らの才能を称賛し、「失礼な言い方だけどメインがいて、横にいてサポートするのは巧えなあと思う」と述べている[17]。また自身が審査委員長を務める『ビートたけしのエンターテインメント賞』(東京スポーツ新聞社)で、日本芸能大賞を受賞したブラマヨについて「バラエティでの“保険”だね。この2人がいると安心して見ていられる」と絶賛した[18]


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