ブラジル
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世界中からの大量移民(英語版)が幾世紀も続いており、世界で最も多文化および民族的に多様な国家の1つであり[7][8]、そしてローマカトリック教徒が人口の過半数を占める国家(英語版)となっている。

現在のブラジルの領土には、1500年にポルトガル帝国によって発見された土地を主張した探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルが上陸する前に、多くの部族国家が存在していた。ブラジルは、帝国の首都がリスボンからリオデジャネイロへ移された1808年までポルトガルの植民地(英語版)であった。1815年、同植民地はポルトガル連合王国、ブラジル連合王国、アルガルヴェ連合王国の成立により王国の地位に昇格した。独立は1822年にブラジル帝国の創設によって達成され、国家は立憲君主制議会制の下で統治された単一国家へと転身した。1824年に最初の憲法が批准されると、二院制の議会が設立され、現在の国民会議の原型となった。そして1888年に奴隷制が廃止された。軍事クーデター後の1889年には共和制への移行(英語版)で共和制国家となった。1964年には軍事独裁政権(英語版)が出現し、1985年までその政権による統治が続いたものの、以降は文民統治が再開されることとなった。1988年に制定されたブラジルの現行憲法は、民主的な連邦共和国と定義している[9]
国名ブラジルの人口分布図(2000年)

正式名称はポルトガル語で、Republica Federativa do Brasil ポルトガル語発音: [xe?publika fede?a?t?iva du b?a?ziw](ヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ 聞く)。通称 Brasil(ブラズィウ 聞く)。「ブラジル」という読みはポルトガル本国などで使われるイベリア・ポルトガル語での発音であり、ブラジル・ポルトガル語での発音にもっとも近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。

公式の英語表記はFederative Republic of Brazil (フェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル)。通称 Brazil(ブラズィル 聞く)。ポルトガル語では Brasil と綴られるが、英語では Brazil と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasilia と表記される。

日本語の表記はブラジル連邦共和国、通称ブラジル。漢字表記では伯剌西爾か伯国[10][11]となり、伯と略される。ただし中国においては巴西(バーシー)と表記される。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。もともと、この土地は1500年にポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島 ( Ilha de Vera Cruz )」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地 ( Terra de Santa Cruz )」と改名された。

その後、あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたスオウに似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」(ブラジルボク)と呼ぶようになり、ブラジルボクのポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。

1822年ブラジル帝国(Imperio do Brasil)として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆国(Estados Unidos do Brasil)を国名としていたが、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。
歴史詳細は「ブラジルの歴史」を参照
先コロンブス期ブラジルのインディオ

ブラジルの最初の住民は、紀元前11000年[注釈 1]ベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年ごろ、現在のブラジルの領域に到達した[注釈 2]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には、のちにヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族(英語版)・グアラニー族アラワク族系の人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。
ポルトガル植民地時代「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル植民地時代初期の地図

1492年クリストーバル・コロンヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達したあと、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。

1500年ポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として、ほかの南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチリオデジャネイロ(1月の川)を命名した。

ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語グアラニー語などを含むトゥピ語族を話す先住民であった。トゥピ語族のほかにもブラジル先住民には、ジェー語族(英語版)・アラワク語族(ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族を話す集団があった。ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、ほかの先住民はそれぞれ部族の言葉を持っているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。こうしてリングワ・フランカ(一種の共通語)のリンガ・ジェラールリンガ・ジェラール・パウリスタリンガ・ジェラール・アマゾニカ)が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[12]

初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主要産業となった。このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザ(英語版)がサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受けた。北東部の一部がネーデルラント連邦共和国オランダ)に占領され、オランダ領ブラジル(英語版)となった。1661年、ハーグ講和条約が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)領有を認めるとともにオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。

一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(英語版)(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された。インディオの数が足りなくなると西アフリカアンゴラモザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。


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