ブラジル
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そしてこの露骨な親米政策は、エドゥアルド・ガレアーノをはじめとするラテンアメリカ諸国の知識人からは「裏切り」だとみなされた[22]

しかし、1985年に民政移管すると、特に1980年代後半の冷戦終結後は南アメリカの大国としてアルゼンチンやパラグアイなどの近隣諸国のみならず、アジアアフリカ中近東諸国などとも全方面外交を行い、WTOメルコスールなどを通して積極外交を行うほか、没落したアルゼンチンに代わってラテンアメリカ諸国をまとめるリーダーとして国連改革を積極的に推進し、国連安全保障理事会常任理事国入りを日本やインドドイツなどとともに狙っているとされる。また、ポルトガル語圏の一員として旧宗主国ポルトガルや、アンゴラモザンビーク東ティモールとも強い絆を保っている。更には南大西洋地域に位置する国家により設立された『南大西洋平和協力地帯(英語版)』(ZPCAS,ZOPACAS)の加盟国の一つとなっている。

ブラジルは主権の相互尊重の原則を根拠に対等な外交施策をとることで知られる。アメリカ政府がテロリスト対策のひとつである新入国管理制度で、ブラジルを含む25か国から入国する者に顔写真と指紋の登録を実施したのに対抗し、ブラジル政府は、2004年1月1日から対抗措置としてブラジルに入国するアメリカ人を対象に、顔写真と指紋の登録を実施した。またかつてはブラジルは南米で唯一日本人が短期滞在で入国するときにビザが必要な国であった。これも、日本政府がブラジルからの入国に対してビザを求めていることに対する、相互尊重の原則を根拠にした対抗措置だった。しかし、リオデジャネイロオリンピックの期間(2016年6月1日ー9月18日)は日本人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人を対象に一方的に観光ビザを免除し、その延長上として2019年6月17日以降はこれら4ヶ国から入国する外国人を対象に観光ビザの免除となった。これにより日本人は南米全ての国にビザなしで入国が可能となった。(1回につき90日以内の滞在、1年間のうち合計180日間無査証で滞在可能)



パレスチナ詳細は「ブラジルとパレスチナの関係(英語版)」を参照

2010年12月パレスチナ自治政府を国家承認した[23]。また、2016年2月には西半球の国では初のパレスチナ大使館も設立した[24]
日本との関係サンパウロ日本人街リベルダージ地域で有名な見本市第35代大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァと第91代内閣総理大臣福田康夫(2008年のG8・北海道洞爺湖サミット)詳細は「日伯関係」を参照

日本との外交関係は1895年の修好通商航海条約調印から始まり、1897年に両国内に公使館を開設。1908年6月には日本からの本格的移民が開始され、笠戸丸がサントスに入港した。その後第二次世界大戦中の断交状態(ブラジルは連合国として参戦)と1950年代初頭の国交回復を経て、常に活発な人的、経済的交流が行われており、その距離の遠さにもかかわらず世界各国の中でも特に日本との縁が非常に深い国である。

1908年に最初の本格的な集団移民、いわゆる「笠戸丸移民」が到着して以降、第一次世界大戦期や第二次世界大戦を経て、1950年代に日本政府の後援による移民が停止されるまでにブラジルに渡った日本人移民の子孫は5世、6世の世代になり、サンパウロの世界最大級の日本人街リベルダージ」を中心に、海外で最大の日系人社会(約200万人[25][26][27][28][29])を持つなどブラジル社会に完全に溶け込んでいる。

1923年から1940年まで、五島出身のドミンゴス中村長八神父が初の海外派遣日本人宣教師として、サンパウロ州マットグロッソ州パラナ州、そしてミナスジェライス州南部の計4州で活躍した。「生ける聖人」と呼ばれており、現在、列福調査が進められている[30]

日系ブラジル人は政治や経済などで、高い地位に就くものも多いほか、特に長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ている。2007年2月には、2世のジュンイチ・サイトウ空軍大将が空軍総司令官に任命され、ブラジル軍の最高位ポストに就いた初の日系人となった[31]

また、1950年代以降、日本の高度経済成長期にかけて東芝トヨタ自動車東京海上日動コマツヤクルト本社日本航空など、重工業から金融、サービス業や運送業に至るまで、さまざまな業種の日本企業がサンパウロを中心に2018年時点で500社以上進出しており[32]、世界でも有数の規模の日本人学校サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校があるほか、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。在留邦人は約5万人(2018年)、在日ブラジル人は約20万人(2019年、法務省)である。

1962年に両国による合弁事業であるウジミナス製鉄所へのODAによる融資を行って以降、電気や港湾、衛生設備など、各種インフラの充実を中心としたODAが継続的に行われている。しかしながら、ブラジルが工業国であり比較的インフラが整っていることから、近年はインフラでも環境、衛生関係の技術的要素に特化されたものとなっている。日本人学校めぐみ学園などがある。
国家安全保障サルヴァドール・ダ・バイーアでのパレードブラジリアブラジル軍空母サン・パウロ詳細は「ブラジル軍」を参照

1889年の共和制革命で主要な役割を果たしたことがおもな理由となり、軍は伝統的に政治に強い影響力を持ち、1920年代ごろから「テネンチズモ」(テネンテ=中尉から転じて青年将校を指す)と呼ばれる、革新的な青年将校が強い影響力を持って政治を進めようとする傾向が生まれ、ヴァルガス体制の設立にも協力した。その後1964年から1985年まで軍政下にあったこともあり、民政移管に際しても大きな影響力を政界に残した。そのため、かつて軍は「ブラジル最大の野党」と呼ばれていた。

また、ブラジルは第一次世界大戦第二次世界大戦ともに連合国側で参戦し、第二次世界大戦に連合国として参戦した際には、ラテンアメリカで唯一陸軍をヨーロッパ戦線(イタリア戦線)に派遣した(ブラジル遠征軍)。その後、1965年のドミニカ共和国の内戦の治安維持に派遣され、アメリカ合衆国主導による、ボッシュ派社会改革政権崩壊への積極的な協力を行った。

1982年フォークランド紛争の敗北によってアルゼンチンの軍事政権が崩壊した後は、長らく最大の仮想敵国と見ていたアルゼンチンとの融和政策が実現し、それまで続いていた軍拡競争が終わったために現在は周辺諸国との軍事的緊張関係はなくなった。ただし、国土が広大で人口も多いために、依然として南アメリカで最大規模の軍事力を保持する。

12か月の徴兵制を敷いており、総兵力は約32万人ほどである。陸軍海軍空軍三軍が存在する。軍事政権期には核開発計画を進めていたが、1988年にアルゼンチンとともに核計画の放棄を宣言した。

近年は国連PKOに積極的に派遣されている。また、各種軍用機や軍用車両の国産化が進んでおり、特にブラジルの航空機産業の基盤を生かした一部の軍用機は自国や南アメリカの周辺国のみならず、ヨーロッパや中東諸国、オセアニアにも輸出されている。


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