1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達したあと、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。
1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として、ほかの南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチがリオデジャネイロ(1月の川)を命名した。
ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語やグアラニー語などを含むトゥピ語族を話す先住民であった。トゥピ語族のほかにもブラジル先住民には、ジェー語族(英語版)・アラワク語族(ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族を話す集団があった。ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、ほかの先住民はそれぞれ部族の言葉を持っているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。こうしてリングワ・フランカ(一種の共通語)のリンガ・ジェラール(リンガ・ジェラール・パウリスタとリンガ・ジェラール・アマゾニカ)が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[12]。
初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主要産業となった。このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザ(英語版)がサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。
1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受けた。北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(オランダ)に占領され、オランダ領ブラジル(英語版)となった。1661年、ハーグ講和条約が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)領有を認めるとともにオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。
一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(英語版)(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された。インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビの胸像
17世紀にはブラジル内陸部の探検が、サンパウロのバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)により始まった。バンデイランテスは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねたマルーン(逃亡奴隷)の中には奥地にキロンボ(英語版)(逃亡奴隷集落)を築くものもあった。その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)はパルマーレスのズンビによって指導されたが、1695年のパルマーレスの戦い(ポルトガル語版)でバンデイランテスによって征服され消滅した。
一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデシリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設した。以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。
その後、18世紀にはミナスジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こった。ブラジルの中心が北東部から南東部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。ミナスの陰謀:このブラジル初の独立運動では、首謀者の内うちもっとも身分の低かったチラデンテスのみが処刑された
バンダ・オリエンタルをめぐるスペインとの衝突のあと、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発生。計画は密告によって失敗した。首謀者のうちもっとも身分の低かったチラデンテスがすべての罪をかぶせられ処刑された。
その後、1791年に始まったハイチ革命の影響もあってクレオール[要曖昧さ回避]白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進展。植民地時代にはブラジルに大学が設立されず、知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。黄金法(1888年)
ブラジルの独立「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「ブラジル独立」も参照ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ:独立派のブラジル人ブルジョワジーを代表してペドロを擁立した
ナポレオン戦争により、1807年にジャン=アンドシュ・ジュノーに率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降、リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。