ブラジル
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1822年ブラジル帝国(Imperio do Brasil)として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆国(Estados Unidos do Brasil)を国名としていたが、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。
歴史詳細は「ブラジルの歴史」を参照
先コロンブス期ブラジルのインディオ

ブラジルの最初の住民は、紀元前11000年[注釈 1]ベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年ごろ、現在のブラジルの領域に到達した[注釈 2]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には、のちにヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族(英語版)・グアラニー族アラワク族系の人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。
ポルトガル植民地時代「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル植民地時代初期の地図

1492年クリストーバル・コロンヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達したあと、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。

1500年ポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として、ほかの南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチリオデジャネイロ(1月の川)を命名した。

ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語グアラニー語などを含むトゥピ語族を話す先住民であった。トゥピ語族のほかにもブラジル先住民には、ジェー語族(英語版)・アラワク語族(ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族を話す集団があった。ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、ほかの先住民はそれぞれ部族の言葉を持っているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。こうしてリングワ・フランカ(一種の共通語)のリンガ・ジェラールリンガ・ジェラール・パウリスタリンガ・ジェラール・アマゾニカ)が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[12]

初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主要産業となった。このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザ(英語版)がサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受けた。北東部の一部がネーデルラント連邦共和国オランダ)に占領され、オランダ領ブラジル(英語版)となった。1661年、ハーグ講和条約が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)領有を認めるとともにオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。

一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(英語版)(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された。インディオの数が足りなくなると西アフリカアンゴラモザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビの胸像

17世紀にはブラジル内陸部の探検が、サンパウロバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)により始まった。バンデイランテスは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部パラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。


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