ブラジル人
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ブラジル市民権を持っている外国人は、生まれつきブラジル国籍を所有している人とまったく同様の権利や義務を持っているが、大統領副大統領防衛大臣国防長官下院議長軍人外交官になることはできない[7]
概要

ブラジル人は主に入植者、独立後の移民者、アフリカの奴隷、ブラジル先住民の子孫たちであり、多くはポルトガル、イタリアスペイン、ドイツ語圏の出身者である。日本ポーランドウクライナや、レバント出身者も多くいる[8]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ブラジルは多民族国家である。1列目: ポルトガル人ドイツ人イタリア人アラブ人日本人。2列目: アフリカ人パルド(カフーゾ、ムラート、カボクロ)、先住民Main Brazilian ethnic groups.
植民地時代(1500年?1822年)

主に3つのグループが存在した。ブラジル先住民、ヨーロッパからの入植者、アフリカからの奴隷である。

ブラジル先住民

最初の移住者が16世紀に到着する前、ブラジルには推定240万人のブラジルの先住民が生活していた。彼らは更新世以来ブラジルで生活しており、現在でも数百に上る部族や民族を形成し、多様な特徴や姿形を見せている。

1498年頃にドワーティ・パチェーコ・ペレイラ率いる船団がブラジルに到着したとされているが、その当時の先住民の人口には諸説ある。その後1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着し、さらに1502年にアメリゴ・ヴェスプッチが到達したが、当時の先住民の人口は240万人から310万人と見積もられている。

より正確な情報としては、ブラジル先住民は入植者が運んできた伝染病(インフルエンザ天然痘しょう紅熱結核)や戦闘(ポルトガル、フランス、オランダと軍事同盟を結び、そこで起きた組織的大量虐殺によって死者が増え、さらに入植者が来た後に流産をしてしまう先住民の女性の割合も増えた)によってブラジル先住民の3/4の人が死亡したというものがある。生き残った人々はアマゾン川流域へ逃れ、ラテンアメリカの外へ移住する人もいた。また、イエズス会の保護の元で禁欲的な生活を送っていた先住民が都会へ抜け出し、移住した土地で異人種の人と結婚したことも少なくなかった。ヨーロッパで発生した病気が貿易ルートを経由して急速に広まり、ヨーロッパ人と直接戦闘などで接触していないにもかかわらず先住民は全滅寸前まで追い込まれた。

現在、51万7千人の先住民が定住していて、そのうち16万人が先住民の言語を話す。数百万人のブラジル人は、異人種間での接触があったために先住民の血を引いている。

ヨーロッパからの入植者

公式の記録では、ブラジルは1500年にポルトガルによって発見され、72万4千人のポルトガル人入植者が植民地時代の終わりごろまでに入国してきたとされている[9]。その多くは男性であった。その72万4千という数字よりはるかに多い人が入国しただろうと主張している別の資料もある。19世紀まで、ポルトガルはブラジルに移住する人が多い国のひとつだった[10]。イエズス会修道士はポルトガル王国に、両親を亡くして孤児になっている王室の保護下にある女性(en:Orfas d'El-Rei 「王の孤児」と呼ばれていた)を移住者と結婚させるためにブラジルに送ってほしいと頼んだという。[11][10][12][13]。1551年、ブラジル北東部のバイーア港に最初の孤児たちのグループがやってきた。植民地を統治する過程で、または国王のために戦ったなどの過程で死亡した貴族の娘は、身分の高い入植者と結婚した。

他のヨーロッパ諸国からの移住者のうち、最も多かったのはオランダ出身者であった。1630年から1654年にかけて、オランダによって支配されていたブラジル北東部に、比較的少ない人数ではあるが、信仰の自由を求めるオランダ人入植者とユダヤ人が移り住んできた。その後、ユダヤ人はレシフェにアメリカ大陸で最初のシナゴーグであるカハル・ズル・イスラエル・シナゴーグを建設した。2万人以上のオランダ人がブラジルに入国したと言われているが、彼らの多くはオランダがブラジルから撤退した後に追い出されてしまった。ブラジルに残った家族の多くはブラジル北東部の奥地(ペルナンブコ、パライバ、リオグランデ・ド・ノルテ、セアラー他)に逃れたり、ポルトガル風の名前に改名したりした。ブラジル北東部の人々に過剰にみられるハプログループ2のY染色体は、オランダ人入植者と先住民が結婚したことによるものが大きいと言われている。ブラジルに残ったユダヤ人はキリスト教に改宗したが、彼らの中にはひそかにユダヤ教を信じている人もいた。ブラジルから離れたユダヤ人の多くは、現在のニューヨークであるニューアムステルダムへ向かい、アメリカ合衆国で最古といわれるシナゴーグであるCongregation Shearith Israelを創設した。

また、特に1500年以降最初の100年間、非常に多くのポルトガル人新キリスト教徒たちがブラジルに渡った。彼らはポルトガル王国やスペイン王国からの弾圧を逃れて、または追放されてブラジルに入国した。また、彼らの中にはイベリア半島のロマ人も含まれており、ブラジルにジプシーが多い一因となっている。ブラジルはアメリカ大陸ではアメリカ合衆国に次いで2番目にジプシーが多い。加えて、20世紀にブラジルはバルト海沿岸、中央ヨーロッパ、西ヨーロッパからもたくさんのジプシーを受け入れた。

アフリカからの奴隷

16世紀半ばから1855年にかけての大西洋の奴隷貿易により、様々な国や民族からなる約360万人のアフリカ人がブラジルに渡り、その結果ブラジルはアフリカ人を祖先に持つ人がアメリカ大陸で一番多い国となった。過酷な環境により奴隷主の下から逃亡したアフリカ系ブラジル人のコミュニティ・マルーンがブラジルの至る所に出来た。バイーアにいた奴隷のうちの少数はイスラム教徒で、彼らはサルヴァドールで反乱を起こしたが、すぐに軍隊によって鎮圧された。
大移動時代(1820年から1970年代まで)

この時代には世界中の人々がブラジルに渡り、その中の多くがヨーロッパ人であった。ブラジルは1820年から1950年にかけて、約56万8千人のヨーロッパ人移民を受け入れた[14][15]。その中には当時栄えていたユダヤ人もいた。加えて、20世紀に95万人のアジア人がブラジルに渡ったが、その中には、中東出身者やキリスト教徒のレバントアラブ人、アジア人移民で最大の人数を誇る27万人の日本人などがいた[16][17][18][19]。当時、移民のほぼ70%は南ヨーロッパの人々であり、残りの約30%は他のヨーロッパ地域、アジア(西アジアと東アジア)、アフリカ(多くは白人アフリカ人、ユダヤ人、ベルベル人他)、南北アメリカの人々である。

南欧からの移民

1808年にポルトガルの裁判所がブラジルに移ったことにより、何千人ものポルトガル人が再びブラジルに渡り、その後1820年には国際港が開かれた。これにより、今までになかった大きな移民の波が押し寄せることになる。この頃に、2回目となるポルトガル人の大移住があり、180万人以上の人々がブラジルに移住してきた。ポルトガル人はブラジルが発見されて以来ブラジルに住み続けているため、正確に何人の子孫が存在しているのか計算するのが難しくなっている。現在数百万人いる白人系ブラジル人は1870年代から1975年にかけて移住してきたポルトガル系移民の子孫である。加えて、ブラジル人は異なる民族と結婚する人が多いため、ポルトガル系移民の血を部分的に引く人も多く存在している。彼らの祖先の多くは、ポルトガル北部と中部にあるミーニョ、トラス・オス・モンテス、ベイラ、エストレマドゥーラから来た人々である。

ブラジル北東部はポルトガル植民地時代にポルトガル人による大移住があった場所であるが、大移動時代にブラジル南東部へのさらに大規模な移住があった。サンパウロが最も多い人数を受け入れ、リスボンを除くとポルトガル語圏で最大の都市といわれているリオ・デ・ジャネイロが続く。


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