ブラクストン・ブラッグ
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ミシシッピ州北部ではアール・ヴァン・ドーンスターリング・プライス第二次コリンスの戦いで敗北し、ロバート・E・リーメリーランド方面作戦で失敗したというがっかりさせるような報せが届いていた。ブラッグは自軍がさらに孤軍で勝利を上げたとしても得るものが少なく、しかるに敗北すれば集められたはずの豊富な食料や物資だけでなく、自軍にとっても損失となると考えた。ブラッグは妻に宛てて「南西部全体が敵軍の領地となった現状で、私の高貴で小さな軍隊がテントや靴も無いままに北部の気候で氷に閉ざされ、毎日のパンなどを調達しなければならないとしたら、私の罪は許し難いものになっただろう」と書き送った[8]

ケンタッキー州侵入は、アラバマ州北部やテネシー州中部の大半から北軍を追い出し、北軍は失地を回復するために1年間を要したものの、戦略的には失敗だった。ブラッグは幾つかの新聞や2人の部下の将軍、ポークとウィリアム・J・ハーディに批判されたが、ケンタッキー州侵入の失敗について南軍最高司令部の中に広まった多くの非難があった。ブラッグとカービー・スミスの軍隊は統一された指揮系統が無かった。ブラッグは、南軍にとって利点を生かせる主要戦場だったビューエルの通り道、マンフォードビルから遠く離れて軍隊を動かしていたことに責めがあった。ポークもまた、その日戦闘の前と最中にブラッグの指示に従わなかった責めがあった。

12月、ブラッグはストーンズリバーの戦いを行い、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将をもう少しで打ち破るところだったが、軍団指揮官ハーディとポークの勧奨の後で、戦場から軍隊を引きテネシー州タラホーマに撤退した。ブラッグに対する攻撃がまた始まり、ブラッグの支持者数人も今度は彼に背を向けた。ジェイムズ・M・マクファーソンは、ストーンズリバーの事後について次のように書いた[9]。ストーンズリバーの後でワシントンが安堵の息をついた一方で、テネシー軍内には意見の衝突が頂点に達した。ブラッグ配下の軍団と師団の指揮官達全てがその総司令官に対する不信を表明した。上級将軍ウィリアム・J・ハーディとレオニダス・ポークは、デイヴィスにジョンストンを軍指揮官に付けるよう求めた。師団指揮官のB・フランクリン・チーザムはブラッグの下では二度と従軍しないと明言した。ブレッキンリッジはブラッグに決闘を申し込もうと思った。ブラッグは反撃に出て、命令不服従で一人の師団指揮官を軍法会議に付し、戦闘中の飲酒でもう一人(チーザム)を告訴し、ブレッキンリッジを指導力不足で非難した。この内輪揉めの口論はヤンキー達が果たしたよりも大きな損失を軍隊に与える怖れがあった。ブラッグは失望してある友達に、「大統領が私に替わる誰かを送ってくれれば良い」と語り、デイヴィスには同じようなことを文書で送った。 ? James M. McPherson、Battle Cry of Freedom: The Civil War Era

ストーンズリバーはまた非難がブラッグ一人の上に拡がったもう一つの機会だった。ブラッグは戦闘が行われた場所について責められるべきだった。そこでは攻撃する南軍にほとんど利点がなく、守る北軍に多くの利点があった。軍事目標の選定もまずく、ブラッグ軍が拡がって弱くなっていくにつれて、北軍の防御前線は集中し強くなっていった。1863年1月2日にブラッグがジョン・ブレッキンリッジに命じた賢明でない攻撃は得るところがなく軍隊を弱めた。しかし、その部下達は様々な程度で問題があった。経験の足りないジョン・P・マッコーン少将は、ブラッグの命令に対する不服従で軍法会議にかけられ有罪となった。この行動のためにその師団の攻撃を弱め、おそらくは南軍の勝利にも損失を出させた。師団指揮官B・フランクリン・チーザムに対する飲酒の告発は的を射ており、チーザムは戦闘中にひどく酔っていたので兵士を前に先導するときに落馬したという主張があった。ポークとハーディは共にその攻撃の連携を取らず梯形編成で攻撃することを選び、それが混乱を大きくしたことで責められるべきである。カーター・L・スティーブンソン少将の師団をビックスバーグの防衛に送ったジェファーソン・デイヴィスにも責めはある。これらの部隊を失ってブラッグ軍を弱め、もしブラッグがこれらの部隊を持っておれば、勝利は可能であったかも知れない。

ブラッグ軍の多くの者が戦闘の後で、ケンタッキー州侵入の失敗と最近のマーフリーズボロ(ストーンズリバー)での敗北を引き合いに出し、軍隊におけるブラッグに対する信頼の欠如を理由としてブラッグの配転を求めた。ポークが首謀者となり、友人のデイヴィス大統領の影響力を使おうとして、一連のデイヴィス宛の手紙で何故ブラッグが軍の指揮官から外されるべきかを説明した。ハーディがこの件ではポークの副司令になり、ブラッグには友好的な顔をする一方で、軍隊の士官達のところに行ってはブラッグに反対する理由を説いて回った。デイヴィスはブラッグかポークかを選択することを迷い、西部戦線の南軍総指揮官であるジョセフ・ジョンストンを使ってブラッグを指揮官から外させる権限を持たせることにした。ジョンストンはブラッグを訪問し、軍の全体士気が高いことを見出して、ブラッグをそのままにしておくことにした。ブラッグはタラホーマからチャタヌーガに転戦し、1863年6月下旬のローズクランズによるタラホーマ方面作戦ではジョージア州に入った。この方面作戦では、ローズクランズが常に南軍を出し抜いていった。

ローズクランズは獲得した領域を強固にしチャタヌーガをしっかりと確保した後で、ジョージア州北部に軍隊を動かしてブラッグ軍と対抗した。ブラッグはその部下達の一部から命令の軽視を味わい始めた。9月10日、トマス・C・ヒンドマンおよびD・H・ヒル両少将は、勢力に勝るジェイムズ・S・ネグリー准将の北軍に対する攻撃命令を拒否した。9月13日、ブラッグはポークにトマス・L・クリッテンデン少将の軍団を攻撃するよう命令したが、ポークはその命令を無視し、攻撃に向かわんとするのは自分だということを強調して多くの軍隊を要求した。ローズクランズはこれらの遅れを利用して分散していた部隊を集結させた[10]。最終的に9月19日と20日に、ブラッグ軍はミシシッピ州から2個師団、東テネシー方面軍から1個師団と数個旅団、およびリーの北バージニア軍からジェイムズ・ロングストリート中将の2個師団の増援を受け、ジョージア州北東部でローズクランズ軍追撃に転じ、チカマウガの戦いで大きな損失を出させて打ち破った。この南軍の勝利は南北戦争の西部戦線で最大のものとなった。この戦闘の後で、ローズクランズはチャタヌーガまで撤退し、ブラッグはチャタヌーガ市に対して包囲戦を布いた。ブラッグはこの勝利を利用して軍隊内の敵対勢力の排除を行うことにし、ポークとヒルを転属させることに成功した。ブラッグはポークが指示に従わなかった多くの事例を挙げて非難した。ポークの同調者だった多くの将軍達の一人、ヒルは声高くブラッグのことを非難したので、デイヴィスはヒルを指揮官から外し、中将への昇進も取り消した。

チカマウガの後で南軍作戦司令部に危機的状況が訪れた。ブラッグの部下である将軍達の何人かは、ブラッグがチャタヌーガから北軍を追い出し追撃して、先の勝利を有効に使う意志に欠けていると認識して憤懣を募らせた。特にポークは指揮官を外されたことで激怒した。多くの師団および軍団指揮官を含む反乱分子は隠密裏に大統領に会って請願を行う準備をした。請願書の著者の名前は知られていないが、歴史家達は表の最初に署名があるサイモン・バックナーだったと想定している[11]。ロングストリート中将は陸軍長官宛てに手紙を書き「我々が今の指揮官を戴く限り、神の手以外我々を救いも助けもしない」と予測した。ネイサン・ベッドフォード・フォレストはブラッグとの長い付き合いで不満を抱いており、チカマウガの後で北軍を追撃も打破もできなかったことを苦々しく思い、再度ブラッグの下で従軍することを拒否した。フォレストはブラッグに面と向かって「貴方はろくでなしの役割を演じている。...もし貴方が私を遮ろうとしたり、私の前を横切ろうとすれば、貴方の命が危ないときになる」と言った[12]。テネシー軍はまさに反乱の瀬戸際にあり、ジェファーソン・デイヴィスは躊躇いながらチャタヌーガに出向き、自ら状況を判断して軍隊内の不平の波を抑えようとした。ブラッグは危機の解決のために辞任を申し出たが[13]、最終的にデイヴィスはブラッグの解任を決断し、他の将軍達を叱責し、その苦情「悪意の軸」を止めさせた[14]

北軍は指揮官がユリシーズ・グラント少将となり、補強もされて、11月24日南軍をルックアウト山の地の利を得た陣地から追い出し(雲の上の戦いとして有名)、翌日にはミッショナリー・リッジから排除することで包囲を破った。ミッショナリー・リッジでの第三次チャタヌーガの戦いの結果、南軍はかろうじて全軍の崩壊を免れる程度まで潰走し、ジョージア州に撤退した。チャタヌーガの陣地を失ったことの一端は、大砲を誤った場所に据えたことがある。このとき軍事的な頂点に大砲を据える代わりに、実際の尾根の頂点に据えていたので、近付く歩兵隊が遮蔽される場所を作ってしまった。ブラッグはデイヴィスの助言に従い、ノックスビルにいる北軍アンブローズ・バーンサイド少将の部隊を包囲するために、ロングストリート中将とその師団およびサイモン・バックナーとその師団を派遣していた。この移動をロングストリートは喜んで受け、ブラッグはロングストリートがバーンサイドの動きを封じてグラントの応援には来られないと信じていた。チャタヌーガでの南軍崩壊直後に、デイヴィスはブラッグの辞意を承認し、アトランタ方面作戦シャーマンと対抗する軍隊を率いていたジョセフ・ジョンストンを後任とした。
最後の日々

1864年2月、ブラッグはリッチモンドに派遣された。その公式命令は「アメリカ連合国諸州の軍事作戦遂行にあたること」とされてはいたが、実質的にはかってロバート・E・リーが当たっていた直接の指揮が無くデイヴィスに軍事的助言を行う役目だった。ブラッグはその組織化能力を使い汚職を減らし物資供給の仕組みを改善した。南軍の徴兵の仕組みについて、指示の鎖を合理化し徴兵に関する抗議の流れを減らすことで、形を整えた。後には、ノースカロライナ州ウィルミントンの防衛軍、ノースカロライナとバージニア南部方面軍、ジョージア州オーガスタ防衛軍、同じくサバンナ防衛軍、サウスカロライナ州チャールストン防衛軍および1865年1月には再びウィルミントン防衛軍を順番に指揮した。


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