当初はマグヌス2世の3男であるハインリヒ1世がリューネブルクを統治していたが、その息子の代に伯父のベルンハルト1世と領土を交換し、以後はベルンハルト1世の子孫がリューネブルクを専ら統治した。直系は1559年のフランツ・オットーの死で断絶した。
フランツ・オットーの弟であるハインリヒの子孫はブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家となり、もう1人の弟であるヴィルヘルムの子孫はブラウンシュヴァイク=カレンベルク家となった。1634年の中ブラウンシュヴァイク家が断絶を受けて前者がヴォルフェンビュッテルを、後者がカレンベルクをそれぞれ継承した。
新ブラウンシュヴァイク家「ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家」も参照
フランツ・オットーの弟であるハインリヒから始まる。息子のアウグスト2世はヴォルフェンビュッテルを継承した。アウグスト2世の曾孫アントン・ウルリヒの后アンナはロシア皇帝イヴァン5世の外孫であったことから2人の間に出来たイヴァン6世はロシア女帝アンナによって生後2ヶ月で新皇帝に選出され、アントン・ウルリヒも皇帝の父ということでロシアに同行した。しかし翌1741年のピョートル1世の娘エリザヴェータのクーデターで廃位され、イヴァン6世は25年の長きに渡る幽閉生活の後(1764年)に殺害され、アントン・ウルリヒも8年後の1774年に虜囚の身のまま亡くなった。
カール・ヴィルヘルム・フェルディナントは一族の重鎮として、そして実質的な王党派の首領として反革命軍を率いてフランス革命戦争で戦ったが、1793年のヴァルミーの戦いで敗北を喫した。1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍の前に大敗北を喫し、自身も討ち死にし、公国はフランスの衛星国であるヴェストファーレン王国に吸収された。カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの息子であるフリードリヒ・ヴィルヘルムは「黒い軍勢」を率いてナポレオンの支配に抵抗し、その功績が認められて初代ブラウンシュヴァイク公となる。1815年にカトル・ブラの戦いで戦死すると2人の息子がそれぞれ公位を継承するも、共に男子を残さなかったため1884年に断絶した。
新リューネブルク家「ハノーヴァー朝」および「ハノーファー君主一覧」も参照
フランツ・オットーの弟であるヴィルヘルムを祖とする。ヴィルヘルムの息子であるゲオルクはカレンベルクとゲッティンゲンを継承し、拠点をハノーファーに移した。息子のエルンスト・アウグストは1692年に選帝侯位を獲得し、その后ゾフィーがイングランド王ジェームズ1世の外孫であったことから、2人の息子であるゲオルク・ルートヴィヒは1714年にグレートブリテン王国の国王ジョージ1世に選出され(ハノーヴァー朝)、ハノーファーとイギリスは同君連合体制となった。
ジョージ3世の代にはフランスによるハノーファー占領と神聖ローマ帝国崩壊に伴う選帝侯位の喪失で危機を迎えるが上手く切り抜けることができ、ウィーン会議の結果、旧ハノーファー選帝侯領を中核とするハノーファー王国が創立されてその初代国王になる。1837年のヴィクトリアがイギリス王位についたことで、サリカ法によりハノーファー王位は叔父のエルンスト・アウグストが継承し、同君連合体制は解消された(ただし、イギリス王族としての身分は認められた)。ゲオルク5世は1866年の普墺戦争でオーストリア側についたことで王位を喪失するも、孫のエルンスト・アウグストはベーヴェルン系が所持していたブラウンシュヴァイク公位を継承することが認められ、結果、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家は一つとなった。しかし、エルンスト・アウグストは第一次世界大戦でドイツ側についたことでイギリス王族としての身分を剥奪され、それに加えて1918年のドイツ革命で公位を喪失した。
現在、存続しているのはカレンベルク系のみであり、この一族はジョージ1世の男系子孫であることからイギリス王子の称号を有する。 ヴェルフ家
系図
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家、古リューネブルク家
ハインリヒ5世(1世)
ライン宮中伯 オットー4世
神聖ローマ皇帝 ヴィルヘルム
リューネブルク公
ハインリヒ6世(2世)
ライン宮中伯 オットー1世