ブライアン・ジョーンズ
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罪の意識とかはないけど…俺達、ある意味ブライアンを虐めてたんだよ」と、ジョーンズを冷遇した事を認めると同時にジョーンズが必要不可欠な存在であった事も認めている[20]
交友関係

初期のストーンズのメンバーの中では、ジョーンズは最も多くのミュージシャン達と交流を持っていた。彼の師とも言えるアレクシス・コーナーは、ジョーンズと、ジャガーおよびリチャーズを引き合わせるきっかけを作った人物でもある[6]。また、ビートルズと初めて会った時、ジョーンズはジョン・レノンがハーモニカ兼コーラス低音部の担当である事を見抜いた[38]。ジョーンズは上記のとおりビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」の録音に招かれており、さらにレノンとマッカートニーもストーンズの「この世界に愛を」や「魔王讃歌」(『サタニック・マジェスティーズ』収録)にコーラスで参加している。ジミ・ヘンドリックスとも交流があり、彼のモンタレー・ポップ・フェスティバル出演時にはヘンドリックスを紹介する役割で出演した。またジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス3枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』(1968年)の録音に参加し、「見張塔からずっと」でパーカッションを、未発表曲「リトル・ワン」ではシタールを演奏した[39]。彼らとの共演は、ジャガーやリチャーズへのあてつけでもあったという[29]。またキーロックは、ヘンドリックスの自宅でジョーンズとヘンドリックスのアコースティックギターでの即興演奏を聴いたが、それは度肝を抜かれるほど素晴らしいものだったという[29]。ヘンドリックスもまた、1970年にジョーンズと同じく27歳で死亡している。ボブ・ディランとも交流があったが、1966年5月に初めて会った時、ジョーンズとリチャーズは泥酔状態で、二人はディランに「『ライク・ア・ローリング・ストーン』は俺達に対する侮辱だ」と因縁をつけ、大喧嘩になった[40]。ディランの「やせっぽちのバラッド」の歌詞にある「ミスター・ジョーンズ」とは、ジョーンズを指すとされている。

冒険作家のC・W・ニコルは、学生時代の先輩に当たる。同じウェールズ人同士ということもあって目をかけていたが、ジョーンズが少女を妊娠させた事に憤慨し、それ以降連絡を絶った。だがニコルはそれでもジョーンズの行く末を案じており、彼がストーンズとして活動している事を知ってからもそれは変わらなかった。ニコルがジョーンズの訃報を知ったのは、エチオピア自然保護官をしている時だった。パトロールの途中で立ち寄ったパブで、観光客からジョーンズの死を聞かされ、アラーキ(エチオピアのテキーラ)を呷りながら涙を流したという[41]
女性関係

ジョーンズは性的に早熟であり、派手な女性関係を持っていた。16歳の時には、早くも14歳の少女を妊娠させている[42]。ジョーンズは20歳までに3人の女性に1人ずつ子供を産ませ、判明しているだけで5人の私生児をもうけたが[43]、どの子に対しても最後まで責任を持つことはなかった。ジョーンズの5番目の子供、ジュリアンを生んだリンダ・ローレンスは、息子を伴ってジョーンズの葬儀に参列している[27]

特によく知られている女優のアニタ・パレンバーグとの交際は、1965年9月から始まった[44]。パレンバーグとは結婚の噂まで出たが、ジョーンズは結婚については否定しながらも「結婚についてはじっくり考えてきた。アニタは俺が真剣になった初めての女だから」と1965年当時の取材で語っている[45]。だが、やがてパレンバーグからも愛想を尽かされることになる。2人が別れるきっかけとなったのは、1967年3月のモロッコ旅行中のことだった。旅の途中で病気になり入院したジョーンズがいない隙に、パレンバーグは同行していたリチャーズと恋仲になっていた。その後回復したジョーンズがその事実を知り、2人は大喧嘩をする。そして3月15日の夜、泥酔したジョーンズは怪しい売春婦2人をホテルに連れてきて、パレンバーグに彼女らと性行為をするように命令した。パレンバーグは当然拒否したが、激昂したジョーンズはホテルの部屋を破壊し始めた。パレンバーグは服をつかんでリチャーズの部屋へ逃げ込んだ。この一件で2人の関係は終わり、その後パレンバーグはリチャーズと交際を始める。この旅行に同行していたキーロックは「これがジョーンズが駄目になっていく始まりだった。本人もその事に気付いていただろう」と語っている[46]

パレンバーグと別れた後、ジョーンズはモデルのスキ・ポワティエと交際を始める[47]。ポワティエはジョーンズの死には関与しなかったが、葬儀には参列している[27]。ポワティエはその後1981年に自動車事故で死亡している。ジョーンズの最後の交際相手となったアンナ・ウォーリンは、プールで死亡しているジョーンズを発見している[48]
他殺説

1994年、ジョーンズは殺されたという説が『Paint It Black - The Murder of Brian Jones』と『Who Killed Christopher Robin?』という2冊の本を通じて広まった。これらによれば、当時ジョーンズの自宅の修理をしていたフランク・サラグッドが、ジョーンズを殺したとキーロックに告白したというものである(サラグッドは1993年に死亡している)[49]。実際にジョーンズの最期の瞬間を目撃した者はいないため、この説は説得力を持たれ瞬く間に拡大していった。


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