この年の11月に、ジョーンズはサセックス州ハートフィールド近くにあるコッチフォード・ファームを購入した。この家は「クマのプーさん」の作者A・A・ミルンがかつて住んでいた家である[22]。同年12月の「ロックンロール・サーカス」が、ジョーンズにとっての最後の出演となった。 1969年になると、ジョーンズはもはやスタジオに現れる事すら殆どなくなっていた[23]。6月中旬、ジョーンズは自宅で、自らが声をかけたメンバーと結成した新しいバンドと練習を行う。招かれたのはアレクシス・コーナーの他、ジョン・メイオール、ミッチ・ミッチェルなどであった。ジョーンズはこの時イアン・スチュワートにも声をかけたが、この申し出は丁重に断られている[24]。 6月8日、ジャガーはリチャーズ、ワッツを伴ってジョーンズの自宅を訪ね、ストーンズから脱退するよう勧めた。ジョーンズは一時金10万ポンドの支払いと、ストーンズが存続する限り年2万ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意した。記者会見でジョーンズは「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなってしまった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語った[25]。 脱退から間もない7月3日午前0時ごろ、自宅のプールの底に沈んでいるジョーンズが発見された。スウェーデン人の交際相手であるアンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時ジョーンズは既に死亡していた。27歳だった[26]。9日に行われた検死では、「酒と薬物の影響による不運な出来事」と結論付けられた[27]。 ジョーンズに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた7月5日のハイドパーク・フリーコンサートは、急遽ジョーンズの追悼公演して行われることとなった。同公演はグラナダTVで放送され[28]、後に音楽ソフトとして発売されている。ジョーンズの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはワイマンとワッツのみだった[27]。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているという説があるが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロン ジョーンズは楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたとされ、ギターやハーモニカの他、子供の頃に習っていたピアノやクラリネット、それ以外にもサックス、シタール、ダルシマー、メロトロン、マリンバ、リコーダーといった20種類以上の楽器を演奏でき、また、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。ジャガーもジョンズのサウンド面での影響の大きさを認めているが、その一方で「ギターを捨て、道楽半分にいろんな楽器に手を出しすぎた」と批判もしている[20]。 ジャガーはむしろギタリストとしてのジョーンズを高く評価している。実際に、ジャガーやリチャーズと出会う契機は、二人がジョーンズのスライドギターに惚れこんだことだった[6]。ジャガーは「ブライアンはまだスライドギターなんて誰も演奏してないような頃から演奏していた。演奏スタイルはエルモア・ジェイムス風ですごく叙情的なタッチをしていた」とジョーンズの演奏技術を讃えている[20]。 初期のストーンズのバッキング・ボーカルはリチャーズではなく主にジョーンズの担当だった。ジャガーの担当であるハーモニカも、初期の頃は主にジョーンズが吹いており、曲によってはギターを持たずにハーモニカだけを持って演奏する事もあった。後年のジョーンズは、シタールにのめりこんでいたという[29]。 ジョーンズは作曲にはほとんど関与しなかったとされ、彼の名がクレジットされたストーンズの楽曲はこれまで1つも発表されていない。ジャガーは「ブライアンには作曲の才能がまるでなかった。奴より才能のない人間には未だに会ったことがない」とまで言い切っており[20]、ワッツもまた「皆が曲を作っていてもブライアンは全く頼りにならなかった」と語っている[30]。だがストーンズの作曲クレジットは、必ずしも正確に表記されない事があり[注釈 2]、実際にはジョーンズが書いた曲でも、クレジットされなかった可能性がある。
ストーンズ脱退と最期
音楽性