ブライアン・ジョーンズ
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才能はあったがすごく偏執的な性格だった」、「俺が注目を浴びるともの凄く嫉妬した」[9][20]と、その人となりを酷評している。リチャーズも「ブライアンはすべてに不満を持ち、いつしか音楽を作る事をやめた。人を裏切り、自分はスターになりたがった」[32]と話す。ワッツもまた「一緒にいて楽しい奴じゃなかった」[30]と語っている。60年代後半のストーンズ内の人間関係をよく知るトム・キーロックは「ブライアンには何をしても弱気な面と、誰にでも平気で嘘をつく悪党の2面性があった」「特に薬物に関しては信用できなかった。彼のことは好きだったが生まれついての嘘つきだった事が悲しい」と打ち明けている[33]。ストーンズのメンバーで唯一、終始友好的な付き合いをしていたのがワイマンである。ワイマンはジョーンズの解雇に最後まで反対していたと言われている。

一方でストーンズと親交のあったビートルズのメンバーは、皆一様にジョーンズを高く評している。特に同じウェールズ系のジョージ・ハリスンは「ブライアンにはミックとキースがいて、僕にはポールとジョンがいた。僕らはそれぞれのバンドの中で同じような位置にいた」と、かなり親近感を持っていたようである。ポール・マッカートニーも「ブライアンは神経質ですごくシャイで、とても真面目な人間だった。麻薬の影響か、ちょっと手が震えてた。でもいい奴だったよ」と語っている。だが晩年のジョーンズとはやはり上手く付き合うことは難しかったようで、ジョン・レノンは「いつしか誰もがブライアンからの電話を怖がるようになった。彼からの電話といえば何かトラブルに決まってたからね」と告白している[34]ザ・フーピート・タウンゼントもジョーンズを好意的に語る一人である。タウンゼントによりと、1963年に初めて面会したデビュー前のザ・フーに対し、ジョーンズは「手助けできることがあればなんでもする」と述べたという[35]。タウンゼントはジョーンズの死後、彼に捧げる曲を製作したが発売しなかった[27]

ジョーンズはストーンズのリーダーの座に相当こだわっていたようであり、選考の応募書類を作成する場合には、自身がバンドのリーダーである旨も記入していた[8]。だがジャガーは「奴がリーダーだった事なんて一度もない」[20]と語っており、ワッツも「ブライアンにはバンドを率いる能力なんてなかった」[30]としている。晩年のジョーンズは周囲からはかなり冷遇されていたようで、1967年にジョーンズが逮捕され、保釈された時に彼を心配して迎えに来る者は誰もいなかったという。キーロックはそのときの事を「あの日はブライアンがとてもかわいそうでならなかった」と回想している[15]。彼の最後の出演舞台となったロックンロール・サーカスも、ジョーンズは直前に「皆が俺に冷たくするから出たくない」と、映像監督のマイケル・リンゼイ=ホッグに泣き言を言ってきたという[36]。同じくロックンロール・サーカスに参加したタウンゼントは「ブライアンは舞台袖で涙を流していた。キースはそれを見てみぬふりをしていた」と語っている[37]。ただし、同じくロックンロール・サーカスに参加していたキース・ムーンと分け隔てなく談笑できた事がジョーンズの唯一の救いだった様である。ジャガーも「仲間をクビにして気持ちがいい訳ないだろ。でもそうせざるを得なかった。罪の意識とかはないけど…俺達、ある意味ブライアンを虐めてたんだよ」と、ジョーンズを冷遇した事を認めると同時にジョーンズが必要不可欠な存在であった事も認めている[20]
交友関係

初期のストーンズのメンバーの中では、ジョーンズは最も多くのミュージシャン達と交流を持っていた。彼の師とも言えるアレクシス・コーナーは、ジョーンズと、ジャガーおよびリチャーズを引き合わせるきっかけを作った人物でもある[6]。また、ビートルズと初めて会った時、ジョーンズはジョン・レノンがハーモニカ兼コーラス低音部の担当である事を見抜いた[38]。ジョーンズは上記のとおりビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」の録音に招かれており、さらにレノンとマッカートニーもストーンズの「この世界に愛を」や「魔王讃歌」(『サタニック・マジェスティーズ』収録)にコーラスで参加している。ジミ・ヘンドリックスとも交流があり、彼のモンタレー・ポップ・フェスティバル出演時にはヘンドリックスを紹介する役割で出演した。またジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス3枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』(1968年)の録音に参加し、「見張塔からずっと」でパーカッションを、未発表曲「リトル・ワン」ではシタールを演奏した[39]。彼らとの共演は、ジャガーやリチャーズへのあてつけでもあったという[29]。またキーロックは、ヘンドリックスの自宅でジョーンズとヘンドリックスのアコースティックギターでの即興演奏を聴いたが、それは度肝を抜かれるほど素晴らしいものだったという[29]。ヘンドリックスもまた、1970年にジョーンズと同じく27歳で死亡している。ボブ・ディランとも交流があったが、1966年5月に初めて会った時、ジョーンズとリチャーズは泥酔状態で、二人はディランに「『ライク・ア・ローリング・ストーン』は俺達に対する侮辱だ」と因縁をつけ、大喧嘩になった[40]


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