ブライアン・ジョーンズ
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同公演はグラナダTVで放送され[28]、後に音楽ソフトとして発売されている。ジョーンズの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはワイマンとワッツのみだった[27]。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているという説があるが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロンのキース・リチャーズ評伝「KEITH RICHARDS Life as a Rolling Stone(邦題:キース・リチャーズ 彼こそローリング・ストーンズ)」の、ジョーンズの葬儀場面の記述が発端だと思われる。なお、上記の言葉はジョーンズが父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である[11]
音楽性

ジョーンズは楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたとされ、ギターやハーモニカの他、子供の頃に習っていたピアノやクラリネット、それ以外にもサックス、シタール、ダルシマー、メロトロンマリンバリコーダーといった20種類以上の楽器を演奏でき、また、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。ジャガーもジョンズのサウンド面での影響の大きさを認めているが、その一方で「ギターを捨て、道楽半分にいろんな楽器に手を出しすぎた」と批判もしている[20]

ジャガーはむしろギタリストとしてのジョーンズを高く評価している。実際に、ジャガーやリチャーズと出会う契機は、二人がジョーンズのスライドギターに惚れこんだことだった[6]。ジャガーは「ブライアンはまだスライドギターなんて誰も演奏してないような頃から演奏していた。演奏スタイルはエルモア・ジェイムス風ですごく叙情的なタッチをしていた」とジョーンズの演奏技術を讃えている[20]

初期のストーンズのバッキング・ボーカルはリチャーズではなく主にジョーンズの担当だった。ジャガーの担当であるハーモニカも、初期の頃は主にジョーンズが吹いており、曲によってはギターを持たずにハーモニカだけを持って演奏する事もあった。後年のジョーンズは、シタールにのめりこんでいたという[29]

ジョーンズは作曲にはほとんど関与しなかったとされ、彼の名がクレジットされたストーンズの楽曲はこれまで1つも発表されていない。ジャガーは「ブライアンには作曲の才能がまるでなかった。奴より才能のない人間には未だに会ったことがない」とまで言い切っており[20]、ワッツもまた「皆が曲を作っていてもブライアンは全く頼りにならなかった」と語っている[30]。だがストーンズの作曲クレジットは、必ずしも正確に表記されない事があり[注釈 2]、実際にはジョーンズが書いた曲でも、クレジットされなかった可能性がある。1967年にはドイツの映画『Mord und Totschlag(英題:A Degree Of Murder)』(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)の音楽を担当している。だがこの映画はソフト化されておらず、サウンドトラック盤も発売されていない。

ジョーンズはストーンズを純粋なR&Bバンドと見なしており、ジャガーも「ブライアンは排他的で音楽観もすごく狭量だった。チャック・ベリーの曲とかやりたくなかったんじゃないかな」[20]と語っている事から、R&B以外の音楽には興味を示さなかったと見られる。一方でジャガーは「古いR&Bのカバーばかりしてた頃は、本領を発揮してるって感じがしていなかった」[31]とも語っており、このあたりにジョーンズの志向する音楽とストーンズの進める音楽性に乖離があったことが窺える。
人物

ジャガーはジョーンズについて「奴は周りの全ての人間を本当にひどい目に合わせた」、「精神的に不安定で、いつもイライラしていた。才能はあったがすごく偏執的な性格だった」、「俺が注目を浴びるともの凄く嫉妬した」[9][20]と、その人となりを酷評している。リチャーズも「ブライアンはすべてに不満を持ち、いつしか音楽を作る事をやめた。人を裏切り、自分はスターになりたがった」[32]と話す。ワッツもまた「一緒にいて楽しい奴じゃなかった」[30]と語っている。60年代後半のストーンズ内の人間関係をよく知るトム・キーロックは「ブライアンには何をしても弱気な面と、誰にでも平気で嘘をつく悪党の2面性があった」「特に薬物に関しては信用できなかった。彼のことは好きだったが生まれついての嘘つきだった事が悲しい」と打ち明けている[33]。ストーンズのメンバーで唯一、終始友好的な付き合いをしていたのがワイマンである。ワイマンはジョーンズの解雇に最後まで反対していたと言われている。

一方でストーンズと親交のあったビートルズのメンバーは、皆一様にジョーンズを高く評している。特に同じウェールズ系のジョージ・ハリスンは「ブライアンにはミックとキースがいて、僕にはポールとジョンがいた。僕らはそれぞれのバンドの中で同じような位置にいた」と、かなり親近感を持っていたようである。ポール・マッカートニーも「ブライアンは神経質ですごくシャイで、とても真面目な人間だった。麻薬の影響か、ちょっと手が震えてた。でもいい奴だったよ」と語っている。だが晩年のジョーンズとはやはり上手く付き合うことは難しかったようで、ジョン・レノンは「いつしか誰もがブライアンからの電話を怖がるようになった。彼からの電話といえば何かトラブルに決まってたからね」と告白している[34]ザ・フーピート・タウンゼントもジョーンズを好意的に語る一人である。タウンゼントによりと、1963年に初めて面会したデビュー前のザ・フーに対し、ジョーンズは「手助けできることがあればなんでもする」と述べたという[35]


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