ブライアン・ジョーンズ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ジョーンズはこの時イアン・スチュワートにも声をかけたが、この申し出は丁重に断られている[24]

6月8日、ジャガーはリチャーズ、ワッツを伴ってジョーンズの自宅を訪ね、ストーンズから脱退するよう勧めた。ジョーンズは一時金10万ポンドの支払いと、ストーンズが存続する限り年2万ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意した。記者会見でジョーンズは「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなってしまった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語った[25]

脱退から間もない7月3日午前0時ごろ、自宅のプールの底に沈んでいるジョーンズが発見された。スウェーデン人の交際相手であるアンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時ジョーンズは既に死亡していた。27歳だった[26]。9日に行われた検死では、「酒と薬物の影響による不運な出来事」と結論付けられた[27]

ジョーンズに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた7月5日のハイドパーク・フリーコンサートは、急遽ジョーンズの追悼公演して行われることとなった。同公演はグラナダTVで放送され[28]、後に音楽ソフトとして発売されている。ジョーンズの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはワイマンとワッツのみだった[27]。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているという説があるが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロンのキース・リチャーズ評伝「KEITH RICHARDS Life as a Rolling Stone(邦題:キース・リチャーズ 彼こそローリング・ストーンズ)」の、ジョーンズの葬儀場面の記述が発端だと思われる。なお、上記の言葉はジョーンズが父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である[11]
音楽性

ジョーンズは楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたとされ、ギターやハーモニカの他、子供の頃に習っていたピアノやクラリネット、それ以外にもサックス、シタール、ダルシマー、メロトロンマリンバリコーダーといった20種類以上の楽器を演奏でき、また、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。ジャガーもジョンズのサウンド面での影響の大きさを認めているが、その一方で「ギターを捨て、道楽半分にいろんな楽器に手を出しすぎた」と批判もしている[20]

ジャガーはむしろギタリストとしてのジョーンズを高く評価している。実際に、ジャガーやリチャーズと出会う契機は、二人がジョーンズのスライドギターに惚れこんだことだった[6]。ジャガーは「ブライアンはまだスライドギターなんて誰も演奏してないような頃から演奏していた。演奏スタイルはエルモア・ジェイムス風ですごく叙情的なタッチをしていた」とジョーンズの演奏技術を讃えている[20]

初期のストーンズのバッキング・ボーカルはリチャーズではなく主にジョーンズの担当だった。ジャガーの担当であるハーモニカも、初期の頃は主にジョーンズが吹いており、曲によってはギターを持たずにハーモニカだけを持って演奏する事もあった。後年のジョーンズは、シタールにのめりこんでいたという[29]

ジョーンズは作曲にはほとんど関与しなかったとされ、彼の名がクレジットされたストーンズの楽曲はこれまで1つも発表されていない。ジャガーは「ブライアンには作曲の才能がまるでなかった。奴より才能のない人間には未だに会ったことがない」とまで言い切っており[20]、ワッツもまた「皆が曲を作っていてもブライアンは全く頼りにならなかった」と語っている[30]。だがストーンズの作曲クレジットは、必ずしも正確に表記されない事があり[注釈 2]、実際にはジョーンズが書いた曲でも、クレジットされなかった可能性がある。1967年にはドイツの映画『Mord und Totschlag(英題:A Degree Of Murder)』(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)の音楽を担当している。だがこの映画はソフト化されておらず、サウンドトラック盤も発売されていない。

ジョーンズはストーンズを純粋なR&Bバンドと見なしており、ジャガーも「ブライアンは排他的で音楽観もすごく狭量だった。チャック・ベリーの曲とかやりたくなかったんじゃないかな」[20]と語っている事から、R&B以外の音楽には興味を示さなかったと見られる。一方でジャガーは「古いR&Bのカバーばかりしてた頃は、本領を発揮してるって感じがしていなかった」[31]とも語っており、このあたりにジョーンズの志向する音楽とストーンズの進める音楽性に乖離があったことが窺える。
人物

ジャガーはジョーンズについて「奴は周りの全ての人間を本当にひどい目に合わせた」、「精神的に不安定で、いつもイライラしていた。才能はあったがすごく偏執的な性格だった」、「俺が注目を浴びるともの凄く嫉妬した」[9][20]と、その人となりを酷評している。リチャーズも「ブライアンはすべてに不満を持ち、いつしか音楽を作る事をやめた。人を裏切り、自分はスターになりたがった」[32]と話す。ワッツもまた「一緒にいて楽しい奴じゃなかった」[30]と語っている。60年代後半のストーンズ内の人間関係をよく知るトム・キーロックは「ブライアンには何をしても弱気な面と、誰にでも平気で嘘をつく悪党の2面性があった」「特に薬物に関しては信用できなかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:107 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef