27クラブの嚆矢としても極めて著名である。 ウェールズ人航空技師である父ルイス・ブラウント(1917年 - 2009年)と母ルイザ・ベアトリス(1918年 - 2011年)との間に生まれた[2]。ミック・ジャガーと同様に、ジョーンズの両親も中流階級だった[3]。ローリング・ストーンズを全員労働者階級のバンドとする説は誤りである。ジョーンズは幼少の頃からピアノを習い、地元の教会の少年聖歌隊員になったり、学校のオーケストラに入ってクラリネットを習うなど、音楽的に恵まれた環境で育つ。彼は知能指数が135もある優等生であり、将来を有望視されていた。少年時代は歯科医になろうとしていたという[4]。 1958年、地元のジャズ・バンド66クラブに加入。ギターとサックスを習得し、ダンスパーティや学校などで演奏をした。一方、16歳のジョーンズは14歳の少女を妊娠させたことで、チェルトナム・グラマースクールを除籍される。その後はバスの運転手やレコード店の店員、石炭商などの職を転々とする[4]。 1960年、地元チェルトナムにてアレクシス・コーナーと会う。この頃のジョーンズはヒッチハイクで旅をしながら行く先々で地元のバンドに飛び入りし、ギターやハーモニカを演奏して日銭を稼ぐ生活を送っていた。1961年にはチェルトナムに戻り、地元のバンドでサックスを演奏する。同年10月、交際相手のパトリシア・アンドリューズとの間に、彼にとって3番目の子供であるジュリアンが生まれる[5]。 1962年、コーナーの助言によりロンドンに移ったジョーンズは、デパート店員の職を得て妻子を養っていたが、音楽への情熱を捨てきれず、求人誌にバンドメンバー募集広告を載せた。これを見て連絡してきたのが、後にバンドメイトとなるイアン・スチュワートだった。3月、コーナーによるブルース・バンド、ブルース・インコーポレイテッドにギタリストとして参加。このバンドには、やはり後にバンドメイトとなるチャーリー・ワッツも参加していた[5]。 同年4月7日、イーリング・ジャズ・クラブでエルモア・ジェームスの「ダスト・マイ・ブルーム 12月、空席だったベーシストの座にビル・ワイマンが就き、翌1963年には複数のバンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功。同年6月にストーンズはデッカと契約しデビューを果たす。ジョーンズは紛れもなくローリング・ストーンズの創設者であった。 ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としており、ジョーンズはストーンズを紹介する際には必ず「R&Bバンド」を名乗った[8]。当時のジョーンズの様子をジャガーは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現している[9]。ちなみにジョーンズはジャガーのボーカリストとしての力量に疑問を持っていたようで、デビュー直前には代わりにポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を加入させようと考えていた事もある[10]。
生涯
生い立ち
ストーンズ結成
ローリング・ストーンズとして