ブライアン・ジョーンズ
[Wikipedia|▼Menu]
この頃のジョーンズはヒッチハイクで旅をしながら行く先々で地元のバンドに飛び入りし、ギターやハーモニカを演奏して日銭を稼ぐ生活を送っていた。1961年にはチェルトナムに戻り、地元のバンドでサックスを演奏する。同年10月、交際相手のパトリシア・アンドリューズとの間に、彼にとって3番目の子供であるジュリアンが生まれる[5]
ストーンズ結成

1962年、コーナーの助言によりロンドンに移ったジョーンズは、デパート店員の職を得て妻子を養っていたが、音楽への情熱を捨てきれず、求人誌にバンドメンバー募集広告を載せた。これを見て連絡してきたのが、後にバンドメイトとなるイアン・スチュワートだった。3月、コーナーによるブルース・バンド、ブルース・インコーポレイテッドにギタリストとして参加。このバンドには、やはり後にバンドメイトとなるチャーリー・ワッツも参加していた[5]

同年4月7日、イーリング・ジャズ・クラブでエルモア・ジェームスの「ダスト・マイ・ブルーム」をスライドギターで演奏する。この時観客として来ていたミック・ジャガーキース・リチャーズは感銘を受け、ギグの後初めてジョーンズと言葉を交わした。3人は「世界中でこの手の音楽をやっている唯一の仲間」である事を確信し意気投合、バンド結成への運びとなった。6月、ジョーンズが「ローリング・ストーンズ」のバンド名を提案、一部のメンバーから反発されるが、他に代案が示されなかった事から「ローリング・ストーンズ」に決定した[6]。7月より、ストーンズはマーキー・クラブに腰を落ち着けて活動する。またこの頃より、ジョーンズ、ジャガー、リチャーズの3人は、チェルシーのアパートで共同生活を始める[7]

12月、空席だったベーシストの座にビル・ワイマンが就き、翌1963年には複数のバンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功。同年6月にストーンズはデッカと契約しデビューを果たす。ジョーンズは紛れもなくローリング・ストーンズの創設者であった。
ローリング・ストーンズとして

ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としており、ジョーンズはストーンズを紹介する際には必ず「R&Bバンド」を名乗った[8]。当時のジョーンズの様子をジャガーは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現している[9]。ちなみにジョーンズはジャガーのボーカリストとしての力量に疑問を持っていたようで、デビュー直前には代わりにポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を加入させようと考えていた事もある[10]

だが、体調不良や彼女とのデートのため仕事を欠勤するなど、ジョーンズがリーダーとして相応しくない行動を見せるようになると、バンドの主導権は間もなくジャガーとマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムに移った。ジャガー/リチャーズのコンビがオリジナル曲の製作を始め、オールダムがそれを全面的に推し進めるようになると、作曲能力の乏しいジョーンズは次第にバンド内での存在感を失っていく。1964年のアメリカツアーから麻薬がバンド内に流入し始めると、ジョーンズはすぐに完全に薬物依存に陥った。バンドの成功と共にジョーンズの焦燥感は募り、以後薬物の影響力を高めた。

元々マルチプレイヤーだったジョーンズは、ギター以外の楽器で存在感を示すため、1960年代半ばから様々な楽器を導入するようになる。アマチュア時代から演奏していたハーモニカ、サックスやピアノの他、マリンバダルシマーシタール等の当時のロック音楽では珍しかった楽器を次々と取り入れ、『アフターマス』から『サタニック・マジェスティーズ』までのサイケデリック期のストーンズのサウンドに編曲面で大きな影響を与え、ブルース一辺倒だったバンドの音楽性の幅を広げることに貢献した。また、ビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」にゲスト参加するなど、他のアーティストとの今でいうコラボレーションも積極的に行った。

1967年5月、大麻所持の容疑で逮捕される[11]。10月、9ヶ月の禁固刑が言い渡されるが[12]、12月の上告裁判で1000ポンドの罰金と3年間の保護観察処分に減刑され、収監は免れた[13]。同年にはジャガーとリチャーズも同じく麻薬所持の容疑で起訴されており、第1審では禁固刑を言い渡されたが、上訴審でミックは12ヶ月の条件付で釈放、キースは無罪となっている[14]。1960年代後半にバンドの運転手兼ボディーガードを務めていたトム・キーロックは、この頃のジョーンズから自殺を考えていたことを告白されたと振り返っている[15]

ジョーンズも自身の薬物依存を全く省みなかった訳ではなく、逮捕から判決までの間に一度麻薬更生施設に入っている[16]。だが翌1968年5月、大麻所持の現行犯で再び逮捕された[17]。裁判では無実を主張するが、保護観察期間中の逮捕という事もあり厳刑も予想された。9月、罰金刑が下され、またも収監を免れた[18]。ジャガーはプレスに「ブライアンが刑務所に行かずに済んでうれしいよ」と語ったが[19]、この頃にはすでにバンド内でジョーンズを排除しようとする動きが出始めていた。ジャガーによれば、この頃のジョーンズはギターを持つことさえできなくなっていたと言う[20]。脱退直前のジョーンズの様子は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』での「悪魔を憐れむ歌」の録音風景の中で見られるが、以前のように様々な楽器を自由自在・縦横無尽に生き生きと演奏する姿はもはや見られず、虚ろな顔を見せていた。ジャガーは「マジで100%打ち込んでるブライアンを見たのは、『ノー・エクスペクテーションズ』(1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』収録)が最後だった」と振り返っている[21]

この年の11月に、ジョーンズはサセックス州ハートフィールド近くにあるコッチフォード・ファームを購入した。この家は「クマのプーさん」の作者A・A・ミルンがかつて住んでいた家である[22]。同年12月の「ロックンロール・サーカス」が、ジョーンズにとっての最後の出演となった。
ストーンズ脱退と最期

1969年になると、ジョーンズはもはやスタジオに現れる事すら殆どなくなっていた[23]。6月中旬、ジョーンズは自宅で、自らが声をかけたメンバーと結成した新しいバンドと練習を行う。招かれたのはアレクシス・コーナーの他、ジョン・メイオールミッチ・ミッチェルなどであった。ジョーンズはこの時イアン・スチュワートにも声をかけたが、この申し出は丁重に断られている[24]

6月8日、ジャガーはリチャーズ、ワッツを伴ってジョーンズの自宅を訪ね、ストーンズから脱退するよう勧めた。ジョーンズは一時金10万ポンドの支払いと、ストーンズが存続する限り年2万ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:107 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef