1973年7月8日、ロキシー・ミュージックはヨークのヨーク・ミュージアム・ガーデンズで開催されたミュージック・フェスティバルに出演した。会場では、報道陣が前年にイーノが始めたキング・クリムゾンのロバート・フリップとの共同活動(下記参照)について彼に質問を浴びせた。フェスティバルでは以前イーノが在籍していたポーツマス・シンフォニアがロキシー・ミュージックの前に出演し、当時彼等と活動していた[11]イーノも共演した。フェスティバルの聴衆の一部は明らかにイーノ目当てで、ロキシー・ミュージックのメンバーとして登場したイーノの名を連呼し続け、その余りの喧騒に彼は一旦ステージを退いた程だった[12]。
既に自分の立場が脅かされていると感じていたフェリーは、フェスティバルの終了後にマネージメントに対して、もうイーノとは仕事しないと宣言した。数日後、イーノはマネージメントに呼び出され、自分はもはやロキシー・ミュージックのメンバーではないことを通知された[12][13][注釈 5][注釈 6]。
スタジオ活動ソロ活動初期(1974年)
イーノはロキシー・ミュージックに在籍していた1972年、マッチング・モウルのセカンド・アルバム『そっくりモグラの毛語録』に客演してシンセサイザーを演奏した。この時、同アルバムのプロデューサーを務めたフリップと意気投合し、同年9月にイーノの自宅のスタジオで「ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション」を録音。ロキシー・ミュージックを去った直後の1973年8月に「スワスティカ・ガール」を録音して、両曲を収録したアルバム『ノー・プッシーフッティング』(1973年)をフリップ&イーノの名義で発表した[14]。その後も同名義でインストゥルメンタルが主体のアルバムを数作発表した。
ソロ名義では『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』(1974年)、『テイキング・タイガー・マウンテン』(1974年)と独特なロックアルバムを発表した。それ以降は前衛的な現代音楽、ニューエイジ的な作風を採用するようになる。のちの『アナザー・グリーン・ワールド』(1975年)、『アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ』(1978年)に至っては、グラム・ロック的な派手さが影を潜め、前衛音楽の影響やアンビエント的な作風が強く見られる。
ソロ活動と並行して、ロキシー・ミュージックのギタリストであるフィル・マンザネラ、旧西ドイツで活動していたクラスターのメンバーなどと作品を制作して、マニアックなサウンドが求められた当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。特に知られるところではデヴィッド・ボウイのアルバムである「ベルリン三部作」(『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』)の制作に参加したことが挙げられる。
また、アンビエント音楽の世界では、ハロルド・バッドやジョン・ハッセル、ダニエル・ラノワなどの才能を次々と発掘して、ロックの枠組みに収まりきらない音楽業界への貢献を続けた。
その後も同傾向の作品を発表し続けながら、1980年代のロックの新たな動きにも関心を持ち、デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2などのアルバムにも、プロデュースや演奏などで参加し、ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのコンピレーションアルバム『ノー・ニューヨーク』をプロデュースするなど、その後のアーティストやシーンに影響を与える。その他にも、視覚芸術のインスタレーション作品などにも積極的にも参画している。21世紀に入ってからも、ポール・サイモンやコールドプレイのアルバム制作に参加した。 1974年6月1日、ロンドンのレインボウ・シアター
ライヴ活動
1976年8月、フィル・マンザネラ(ギター)、ビル・マコーミック[注釈 7](ベース、ヴォーカル)、フランシス・モンクマン[注釈 8](フェンダー・ローズ・ピアノ、クラビネット)、サイモン・フィリップス(ドラム、リズムジェネレーター)、ロイド・ワトソン(英語版)(スライドギター、ボーカル)と、一時的なプロジェクトである801を企画した[注釈 9]。