ブッチ・キャシディ
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12月13日、警察との撃ち合い中、キッド・カリはノックスヴィルの警察官ウィリアム・ディンウドル(William Dinwiddle)およびロバート・セーラー(Robert Saylor)を殺し逃走した。カリは、ピンカートンの探偵らおよび他の警察組織らに追跡されているにもかかわらず、モンタナに戻り、数年前の兄弟ジョニー殺害の報復として牧場主ジェームズ・ウィンターズ(James Winters)を撃ち殺した。[11]
1901年 南アメリカへ旅行する

パーカーとロングボーはそれからニュー・ヨーク市に逃げ、1901年2月20日、ロングボーの女性友人エセル・「エッタ」・プレースとともに、パーカーはプレースの虚構の兄弟ジェームズ・ライアン(James Ryan)を装って、イギリス汽船ハーミニアス(Herminius)に乗ってアルゼンチン、ブエノス・アイレスにむけて出発した。そこで彼は、アンデス近くの、アルゼンチン中央西部のチュブ(Chubut)州チョリラ(Cholila)近くのリオ・ブランコの東岸に彼らが買った、15,000エーカー(61平方キロメートル)の牧場の4室の丸太小屋に、ロングボーおよびプレースとともに落ち着いた。
1905年と晩年 最大の強盗、法の網を潜る

1905年2月14日、2人の英語を話す強盗、恐らくパーカーとロングボーが、マゼラン海峡近く、チョリラの南方700マイル(1,100キロメートル)にあるリオ・ガジェゴス(Rio Gallegos)のタラパカ・アルゼンチン銀行(Banco de Tarapaca y Argentino)を襲った。少なくともこんにちの100,000アメリカドル相当をもって逃げ、2人組はパタゴニアの荒涼としたステップを横切って北へ姿を消した。

5月1日、警察が彼らに追いつきかけているので2人はチョリラの農場を売った。ピンカートン探偵社は少し前に彼らの居所を知っていたが、雨季のために探偵フランク・ディメーオ(Frank Dimaio)はそこに行き逮捕することができなかった。知事フリオ・レサナ(Julio Lezana)はそのとき逮捕状を出していたが、それが執行される前に、パーカーと親しく、エッタ・プレースに惚れていたウェールズ系アルゼンチン人保安官エドワード・ハンフリーズが彼らに内報した。

3人組は、北のサン・カルロス・デ・バリローチェ(San Carlos de Bariloche)に逃げ、そこで彼らは汽船コンドル(Condor)に乗り、ナウェル・ウアピ湖(Nahuel Huapi Lake)を渡った。しかしながら年末までに彼らはアルゼンチンに戻っていた。12月19日、パーカー、ロングボー、プレースおよび不明の男性(ハーヴェイ・ローガンかもしれない)は、ブエノス・アイレスの西方400マイル(640キロメートル)のビージャ・メルセデス(Villa Mercedes)の国立銀行(Banco de la Nacion )の強盗に参加し、12,000ペソを奪った。武装した警官らに追跡されて、彼らはパンパとアンデスを横切り、チリに無事帰着した。

1906年6月30日、エッタ・プレースは、逃亡生活はもうたくさんだと考え、ロングボーに護衛されてサン・フランシスコに帰った。パーカーは、中央ボリビアのアンデスのサンタ・ベラ・クルス(Santa Vera Cruz)地域のコンコルディア(Concordia)錫鉱山で「ジェームズ・『サンティアゴ』・マックスウェル」(James "Santiago" Maxwell)という別名で仕事を得て、そこで彼は帰ってきたロングボーといっしょになった。皮肉にも、彼らの主たる仕事には会社の総賃金を護衛することもふくまれていた。それでもやはり立派な牧場主として落ち着きたくて、パーカーは1907年後半、ボリビア西部のサバンナの辺境都市サンタ・クルス(Santa Cruz)に、ロングボーとともに旅行した。
死亡

パーカーの死亡に関する諸事実は、はっきりとは知られていない。1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をラバで運搬中に、おそらくパーカーとロングボーであろう覆面をしたアメリカ人2人の強盗に襲われた。強盗たちはそれからサン・ヴィンチェンテという小さい採鉱町に進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。ラバが左横腹にアラモヨ鉱山の採鉱会社のロゴをつけていたため、カサソラは2人を疑い、家を出て近くの電信吏に知らせ、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊に通報したが、それはアバロア連隊であった。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、アラモヨ強盗を拘束しようと兵3人、警察署長、地元市長と数人の職員が下宿屋を取り囲んだ。

兵3人が家屋に近づいたとき、強盗たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。それから拳銃での撃ち合いが続いた。午前2時頃、発砲の休止中に警官隊と兵たちは家屋のなかから1人の男性が悲鳴をあげるのを聞いた。まもなく、一発の銃声が家屋の中から聞え、そののち悲鳴がやんだ。数分後、もう一発の銃声が聞えた。

当局は翌朝まで包囲を続け、中に入ると両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。男のうち1人は前額に銃傷があり、もう1人はこめかみに弾痕があった。地元警察の報告によれば、遺体の位置から判断して、1人が共犯者を安楽死させるために撃って致命傷を負わせ、その直後最後の弾丸で自殺したと考えられている。

トゥピサ(Tupiza)警察の捜査により、彼らはアラモヨ総賃金強盗を働いた男たちであると身元が特定されたが、ボリビア当局は彼らの本当の名前を知らず、身元を明確に特定することはできなかった。遺体はサン・ヴィンチェンテの小さな共同墓地の、グスタフ・ジマー(Gustav Zimmer)というドイツ人鉱山労働者の近くに埋葬された。1991年、アメリカの法医学人類学者クライド・スノー(Clyde Snow)は彼らの墓を見つけようと試みたが、パーカーとロングボーの存命中の親戚と合致するDNAを持つ遺物は発見されなかった。これが1人または両者が生き延び、合衆国に帰ったという主張に繋がる。
1908年以降の生存の主張

パーカーの姉妹ルーラ・パーカー・ベテンソン(Lula Parker Betenson)は、パーカーは合衆国に生還し、無名のまま暮らしたと主張した。ベテンソンは『Butch Cassidy, My Brother』で、1908年のずっとあとに彼に会ったパーカーと親しい人々の例をいくつか出し、1925年のブッチ、兄弟マーク、父マキシとの「家庭再結成」を詳しく物語っている。

1974年または1975年、コラムニストであるレッド・フェンウィック(Red Fenwick)は、『The Denver Post』で、当時『Post』の記者であった著者イヴァン・ゴールドマン(Ivan Goldman)に、自分はパーカーの外科医と知り合いであると語った。フェンウィックは、彼女は絶対に信頼できる人物であると言った。彼女がフェンウィックに語ったところによれば、彼がボリビアで殺されたのち幾年ものあいだ彼女はパーカーを治療し続けたという。

ロングボーもまた合衆国に帰り、1936年に死亡したという不確かな状況証拠がある。[12]

ジョン・マクフィー(John McPhee)は、『Annals of the Former World』で、1930年代に家庭医フランシス・スミス(Francis Smith)医学博士によってデーヴィッド・ラヴ(David Love)に、ラヴが医学生であった時に語られた物語を述べている。スミスが述べたところによれば、彼はパーカーに会ったばかりで、パーカーはスミスに自分の顔はパリの外科医によって変えられたと語り、彼はスミスに治療された弾傷を示したが、スミスはそれが以前パーカーに施したものだと判ったという。[13]

1960年、アン・バセット(Ann Bassett)の姉妹であるジョシー・バセット(Josie Bassett)はインタビューで、パーカーは「南アメリカから帰ってきたのち」1920年代に彼女のもとを訪れ、「15年ほど前にネヴァダ州ジョニー(Johnnie)で死んだ」と主張した。パーカーの郷里、ユタ州サークルヴィルの地元の人々の別のインタヴューでは、パーカーは死ぬまでネヴァダ州で働いたという主張がある。[14]

アメリカ西部史家チャールズ・ケリー(Charles Kelly)は1938年の著書『Is Butch Cassidy Dead?』の章「Outlaw Trail」を、もしパーカーが「これらの噂の主張するように彼がまだ生きているならば、1938年7月28日に死亡した父マキシミリアン・パーカーのもとを訪れるためにユタ州サークルヴィルに、帰っていないことはきわめて奇妙に思われる」と述べて締めくくった。ケリーはパーカーの父をインタヴューしたと考えられているが、インタヴューの既知の筆記記録は無い。

ワシントン州スポケーン(Spokane)にあるフリーメーソンのロッジ(Lodge。支部)はブッチ・キャシディの小屋(lodge)であるといわれている。彼は支部に加入し、死ぬまで活動したという。また彼はフィリップス製造会社(Phillips manufacturing company)を所有し、経営したという。しかし彼は機械労働の訓練を全くしたことがないため、この話は歴史家により議論がある。またこの主張によると支部の記録類は失われているので、裏付けをすることはできない。しかしながら、この話は彼がウィリアム・フィリップスであると主張する彼の姉妹によって主張された。[15]

ケリーが、サン・ヴィンチェンテ事件ののちパーカーとロングボーとの両者からの文通はやんだと言った一方で、1930年や1937年、1938年付けのパーカーによって書かれたと言われる手紙が公表されている。[16]


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