タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した[11][22]。ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ[22]、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった[11] ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている[11]。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫 Bibliotheca Corviniana[11] はヨーロッパの歴史年代記、哲学、15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった[11]。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され[45]、1395年に2つ目がオーブダに設立されている[45]。1473年に最初のハンガリー語で書かれた書物がブダで印刷された[46]。1500年頃のブダには約5,000人が住んでいたとされる[47]。
オスマンのブダでの収奪は1526年に起こり、1529年には包囲され1541年に完全に侵略された。オスマン帝国領ハンガリーの時代は140年以上にわたって続いた[11]。トルコにより多くの優れた浴場施設が街には造られている[22]。オスマン支配下では多くのキリスト教徒はイスラム教に改宗している。それまで多くを占めたキリスト教徒は数千まで減り、1647年には70人を数えるまで減った[47]。トルコに占領されなかった西側部分はハプスブルク君主国の王領ハンガリーであった。
失敗に終わったブダ包囲の2年後の1686年、一新された戦闘が始まりハンガリーの首都に入って行った。この時、欧州各地から集められた倍の勢力の神聖同盟の74,000の兵士や義勇兵、砲手、将校などのキリスト教勢力がブダやその後の数週間でティミショアラ付近を除いて全ての以前のハンガリーの領土であった地域をトルコから奪い返し再征服した。1699年、カルロヴィッツ条約により領土が変わり正式に認められ、1718年全てのハンガリー王国の領域はトルコ支配から除かれた。街は戦いの間破壊された[11]。ハンガリーはハプスブルク帝国に併合されている[11]。
19世紀、ハンガリー人は独立への闘争[11] と近代化が占めていた。ハプスブルクに対する反発が始まり、1848年にはハンガリー革命が起こるが1年後に破れている。オーストリア=ハンガリー帝国により建てられたハンガリー国立歌劇場
1867年のアウスグライヒはオーストリア=ハンガリー帝国の誕生をもたらした。世界で2番目に地下鉄が建設されたブダペスト1930年頃のブダ城
ブダペストは二重君主制の一方の首都となった。ブダペストの歴史の中で第一次世界大戦まで続く2番目に大きな街の開発に道を開いたのはこの歩み寄りによる。1873年、ブダとペストは公式に合併し古いブダであるオーブダも合併され新しい大都市ブダペストが誕生した。ペストは国の行政や政治、経済、交易、文化の中枢へと劇的に成長した。民族的にもマジャル人がドイツ人を追い越したが、これは19世紀半ばにトランシルバニアやハンガリー大平原からの大規模な流入人口による。1851年から1910年にかけマジャル人の割合は35.6%から85.9%に増加し、言語の面でもハンガリー語がドイツ語に代わり主要な言語になった。ユダヤ人人口のピークは1900年で23.6%を占め[48][49][50]、19世紀から20世紀の変わり目にはユダヤ人の大きなコミュニティが隆盛し、ブダペストはしばしば「ユダヤ人のメッカ」と呼ばれた[51]。 1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は戦争により解体され、ハンガリーはハンガリー王国として独立を宣言した。1920年のトリアノン条約によって最終的にハンガリーは3分の2の領土を失い、マジャル人の人口も3,300万人から1,000万人と領土と同様に失っている[52][53]。 第二次世界大戦でハンガリーは枢軸陣営として参加したが、 1944年、離反を図ろうとしてナチス・ドイツによるパンツァーファウスト作戦により電撃的に国土を占領される。
20世紀から現代まで