最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により[20]1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年に[20]低パンノニア(英語版)の[20]中心都市となった。ローマ人は要塞化された駐屯地に道路や円形劇場、浴場、床暖房を備えた住居などを建設した[41]。829年の和平条約によりパンノニアはオムルタグのブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ1世に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった[42]。アールパードに率いられたハンガリーの人々は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し[22][43]、後に本格的にハンガリー王国が創建された[22]。研究ではおそらくアールパード朝の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる[44]。
タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した[11][22]。ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ[22]、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった[11] ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている[11]。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫 Bibliotheca Corviniana[11] はヨーロッパの歴史年代記、哲学、15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった[11]。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され[45]、1395年に2つ目がオーブダに設立されている[45]。1473年に最初のハンガリー語で書かれた書物がブダで印刷された[46]。1500年頃のブダには約5,000人が住んでいたとされる[47]。
オスマンのブダでの収奪は1526年に起こり、1529年には包囲され1541年に完全に侵略された。オスマン帝国領ハンガリーの時代は140年以上にわたって続いた[11]。トルコにより多くの優れた浴場施設が街には造られている[22]。オスマン支配下では多くのキリスト教徒はイスラム教に改宗している。それまで多くを占めたキリスト教徒は数千まで減り、1647年には70人を数えるまで減った[47]。トルコに占領されなかった西側部分はハプスブルク君主国の王領ハンガリーであった。
失敗に終わったブダ包囲の2年後の1686年、一新された戦闘が始まりハンガリーの首都に入って行った。