ブダペスト
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ブダペストの他のハイライトはセーチェーニ温泉を含めた80の温泉[32] 世界でも最大の地下熱水系統がある[33]。世界で3番目に大きなシナゴーグであるドハーニ街シナゴーグ国会議事堂などもブダペストの見所である。ブダペストの観光客数は年間270万人に上り、ロンドンにある民間調査機関ユーロモニターによればブダペストは世界で37番目に旅行者が多い観光地であるとされている[34]
呼称

ブダペストの名称はドナウ川を挟んだブダとペシュト2つの町の名称を組み合わせたもので、1873年に町が合併され一つになって以来使われている。この際、古いブダを意味するオーブダも一緒に併合された。最初にブダペスト "Buda-Pest" の名が見出されたのは1831年に自由主義貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンが出した "Vilag という本である[35]。ブダ "Buda" やペスト "Pest" の元の意味は不明瞭である。中世からの年代記によればブダは創建者のブレダから来ているとされ、この人物はフン族の支配者アッティラの兄である。ブダが人名から来ていることは現代の学者も支持している[36]。他の説ではブダはスラヴ語で水を意味する "вода, voda"から来ているというものもある。これはラテン語のアクインクムでローマ時代のブダペスト名称で、ローマ人の主立った集落はこの地域にあった[37]。また、ペストの名称についてもいくつかの説があり一つの説は[38] "Pest" はパンノニア属州から来ているとするもので、その時以来あったこの地域のコントラ・アキンクムの森はプトレマイオスによりペッシオン ("Π?σσιον, iii.7.§2) と言及されていた[39]。他の説ではペストの元はスラヴ語で洞窟を意味する "пещера, peshtera" か炉を意味する "пещ, pesht で洞窟で火を燃やしていたか、地元の石がまを言及している[40]。古いハンガリーの言葉では似たような単語でかまや洞窟を意味し、古いドイツ語ではこの地域はオーフェン "Ofen" という名で後にドイツ語でブダ側をオーフェン "Ofen" と言及している。
歴史
古代から19世紀まで中世のブダ城

最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により[20]1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年[20]低パンノニア(英語版)の[20]中心都市となった。ローマ人は要塞化された駐屯地に道路や円形劇場浴場床暖房を備えた住居などを建設した[41]829年の和平条約によりパンノニアはオムルタグのブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ1世に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった[42]アールパードに率いられたハンガリーの人々は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し[22][43]、後に本格的にハンガリー王国が創建された[22]。研究ではおそらくアールパード朝の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる[44]

タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した[11][22]ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ[22]、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった[11] ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている[11]。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫 Bibliotheca Corviniana[11] はヨーロッパの歴史年代記、哲学15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった[11]。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され[45]1395年に2つ目がオーブダに設立されている[45]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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