ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった[20][21]。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている[20]。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは[22]9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来 (en) により略奪された[23]。15世紀に[24] 町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった[25]。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き[26]、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる[27]。また、1848年から1918年の第一次世界大戦敗戦まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた[28]。ブダペストはハンガリー革命 (1848年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった。
ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つで[10][29][30]、ドナウ川河岸を含め世界遺産が広がりブダ城やアンドラーシ通り、英雄広場はよく知られている。ブダペスト地下鉄1号線 Millenniumi Foldalatti Vasut はロンドン地下鉄に次いで世界で2番目に古い地下鉄である[29][31]。ブダペストの他のハイライトはセーチェーニ温泉を含めた80の温泉で[32] 世界でも最大の地下熱水系統がある[33]。世界で3番目に大きなシナゴーグであるドハーニ街シナゴーグや国会議事堂などもブダペストの見所である。ブダペストの観光客数は年間270万人に上り、ロンドンにある民間調査機関ユーロモニターによればブダペストは世界で37番目に旅行者が多い観光地であるとされている[34]。 ブダペストの名称はドナウ川を挟んだブダとペシュト2つの町の名称を組み合わせたもので、1873年に町が合併され一つになって以来使われている。この際、古いブダを意味するオーブダも一緒に併合された。最初にブダペスト "Buda-Pest" の名が見出されたのは1831年に自由主義貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンが出した "Vilag という本である[35]。ブダ "Buda" やペスト "Pest" の元の意味は不明瞭である。中世からの年代記によればブダは創建者のブレダから来ているとされ、この人物はフン族の支配者アッティラの兄である。ブダが人名から来ていることは現代の学者も支持している[36]。他の説ではブダはスラヴ語で水を意味する "вода, voda"から来ているというものもある。これはラテン語のアクインクムでローマ時代のブダペスト名称で、ローマ人の主立った集落はこの地域にあった[37]。また、ペストの名称についてもいくつかの説があり一つの説は[38] "Pest" はパンノニア属州から来ているとするもので、その時以来あったこの地域のコントラ・アキンクムの森はプトレマイオスによりペッシオン ("Π?σσιον, iii.7.§2) と言及されていた[39]。他の説ではペストの元はスラヴ語で洞窟を意味する "пещера, peshtera" か炉を意味する "пещ, pesht で洞窟で火を燃やしていたか、地元の石がまを言及している[40]。古いハンガリーの言葉では似たような単語でかまや洞窟を意味し、古いドイツ語ではこの地域はオーフェン "Ofen" という名で後にドイツ語でブダ側をオーフェン "Ofen" と言及している。 最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により[20]1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年に[20]低パンノニア
呼称
歴史
古代から19世紀まで中世のブダ城