「ブダペスト」という一つの自治体となりドナウ川の両岸を占めるようになったのは、1873年11月17日に西岸のブダ・オーブダと東岸のペストとが合併してからである[11][12]。
概要 (en) では最も大きな都市の1つ。しばしばハンガリーのプライメイトシティとも表現される[14]。
ブダペストの市域面積は525平方キロメートル (202.7 sq mi)[11] で、2011年の国勢調査によるブダペストの人口は174万人[15]、ピークであった1989年の210万人より減少している[16]。これは、ブダペスト周辺部の郊外化によるものである[17]。ブダペスト都市圏(通勤圏)の人口は330万人である[18][19]。
ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった[20][21]。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている[20]。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは[22]9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来 (en) により略奪された[23]。15世紀に[24] 町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった[25]。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き[26]、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる[27]。また、1848年から1918年の第一次世界大戦敗戦まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた[28]。ブダペストはハンガリー革命 (1848年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった。