フロリダ諸島の戦い
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この準備中に、ガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場を発見したためガダルカナル島の攻略も同時に行うことになった。ガダルカナル島が追加となったので、その準備のため作戦の実施は少し遅らせて8月7日に決定された[4]
両軍の兵力

日本軍(
海軍のみ)

ツラギ島

第84警備隊(司令・鈴木正明 中佐)約400名


ガブツ島

横浜海軍航空隊(病院班・舟艇班・工作班)約100名


タナンボゴ島

横浜海軍航空隊大艇隊(司令・宮崎重敏 大佐)350名

第14設営隊 120名

工作関係部隊 50名

特陸派遣隊 20名


フロリダ島

横浜海軍航空隊二式水戦隊 60名


計約1100名

米軍

第1海兵師団4個大隊

計約8000名
戦闘経過米軍の偵察機によって撮影されたガブツ島とタナンボゴ島。右側の島がタナンボコ島で左側の島がガブツ島である。

1942年(昭和17年)8月6日午後10時、ラバウルから異常電波傍受の報せを受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間をいつもより繰り上げ、その発進準備にかかった。

そして翌7日午前4時10分、発進準備を終えた大艇はいよいよ離水を開始しようとする。しかし、その瞬間に米艦載機約10機が来襲。泊地の大艇は全滅し、フロリダ島の水上戦闘機隊も同じ頃全滅した。

午前7時過ぎに第二波の空襲を行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇約100隻をフロリダ島の湾に向け発進させたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸に上陸した。ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護を受けたものの、同日中に占領された。

午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇で進撃を開始した。しかし、進撃の途中に陸岸から50m程先にあるリーフに先頭艇が座礁し、これを見ていた日本軍守備隊はこの舟艇を襲撃した。この攻撃に驚いた米兵は慌てて後続艇に乗り移り、撤退した。この攻撃により、米兵10数名が戦死し、日本軍は舟艇に置き去りにされた機銃を鹵獲した。

翌8日午後3時、米軍はガブツとタナンボゴをつなぐ土手づたいに進撃を開始した。米軍は日本軍陣地の200m手前まで進撃するも、日本軍の抵抗にあい後退した。

午後4時、米軍は兵員輸送用の水陸両用車輛(LVT)2両を以ってタナンボゴに上陸を試みた。これを見た日本軍守備隊約50名は、LVTに駆け寄ると、転輪とキャタピラの間に鉄棒や棍棒をこじ入れLVTの動きを止め、ガソリンをかけてトラクターに火を放った。これにより二輛のLVTは炎上したが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死した。

午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500mの至近距離に軽巡洋艦1隻(サンファン)、駆逐艦2隻(モンセン、ブキャナン)を進出させた。3隻は一列に並び左砲戦の隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃を開始した。この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し、司令の宮崎大佐は壕内で自決した。

この砲撃の後、米軍は同島に上陸し、無血占領を果たした。
両軍の損害

日本軍

戦死者 約1100名(ほぼ全員)

生存者 3名


米軍

戦死者 約122名

日本側の生存者はフェザーストン事件に遭遇した。
脚注^ 戦史叢書49 1971, p. 176.
^ 戦史叢書49 1971, p. 171.
^ 戦史叢書49 1971, p. 236.
^ ニミッツ & ポッター 1977, p. 106.

参考文献

C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史(原題 THE GREAT SEA WAR)』実松譲、冨永謙吾(共訳)(第4版)、恒文社、1977年。 

防衛庁防衛研究所戦史室 編『南東方面海軍作戦』 1(ガ島奪回作戦開始まで)、朝雲新聞社戦史叢書49〉、1971年。 

佐藤和正 『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』(光人社NF文庫 2000年) ISBN 9784769822721










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