フロム・ヘル
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アグデル大学のマイケル・プリンスは、本作が家父長思想に支えられた組織的な性暴力の構造を暗に描いていると主張した[18]。物語の終盤に登場してガルの霊体をたじろがせる女性は、家母長的な文化の存続を示唆するとされた[18][137]。ムーアのスクリプトでは、その女性が告発の視線を投げかけるのはガルだけではなく、画面の向こうの「私たち」でもある[68]

本作における売春婦の描写は、「毒々しく官能的な美女」や、逆に「歯抜けの醜い老婆」のようなステレオタイプではなく、その年齢の女性が職業的な要請に従ってできるだけ美しく装った姿として意図されている[140]。ムーアは従前の「切り裂きジャック」物語では犠牲者が個性を備えた人間として扱われてこなかったと発言している[141]。ムーアは猟奇的な殺人行為を描くにあたっても、既存作品のように「ほとんどポルノと同じ」ショッキングで扇情的な描写は避けようとした。現実に起こったことを虚心に、苦痛を伴うほど正確に細部まで再現することが犠牲者への敬意だと考えていたのだった[107]。これらの描写からは「怒りと共感」が読み取られている[142]。大衆文学の授業で『フロム・ヘル』を扱っているオクラホマ州立大学のマーティン・ウォレンは、「[本作は]切り裂きジャック事件を扱った作品につきものだった扇情性を、暴力とセンセーショナリズムに魅了される我々についての自覚的な比評に変えてみせた。… 我々はこの作品を通して、煽情的な文学や映画が持つ搾取性について語ることができる」と述べている[143]
魔術論

魔術と神秘思想は本作の大きな部分を占めている。評論家夏目房之介は「最後の殺人に向かって徐々に異常をきたし、ついに幻視から実際に時空を超えてゆく圧倒的な描写」を「圧巻」と呼んでおり[144]、翻訳者柳下毅一郎はガルの魔術的行為が描かれる二章を「白眉」としている[32]

作者ムーアは実人生でも「魔術師」と名乗って魔術を実践していることで知られる。そのきっかけとなったのは本作の執筆だった。作中、主人公のガルは「議論の余地なく神々が存在する場所、それは我らの精神の中だ」というセリフを口にする[145]。ムーアは自分が書いた言葉が真実を言い当てていると感じ、一つの啓示と受け取った。40歳を目前にして、ムーアは自身の思想を根底から再構築し、その中心に魔術と神秘学を置くことになる[146][147]。共作者キャンベルの説明によると、ムーアが悟ったのは神の実在あるいは不在といったことではなく、想像力の至上性だった[148]。ムーアが言う魔術とは象徴を操る力のことであり[32]、想像力が世界と相互作用する芸術という行為は魔術そのものだった[149]。以降の作品には『プロメテア』(1999?2005年)を筆頭に魔術の要素が取り入れられるようになり、あるいは執筆それ自体が魔術の実践となった[150]。この転回には、『ウォッチメン』や『フロム・ヘル』のような徹底した計算に基づく作風がいつか形骸化することを恐れていたムーアが新しい方法論を求めたという面もある[151][152]。技術や論理よりも直感と感性に頼って「第四の壁」を破り、読者の深奥にアクセスするのがムーアの新しい目標となった[43]

ムーアの魔術的思考の特徴に非単線的な時間感覚がある。柳下によると、ムーアの世界観の中では象徴を通じた因果関係が時間の流れの双方向に伸びており、過去・現在・未来の事象が一体となって「現実のマトリックス」を形作っている[32]。時間はムーアが執着していたテーマの一つで、過去作『ウォッチメン』でもすべての過去と未来を常に知覚しているキャラクター(Dr.マンハッタン(英語版))が登場していた[153][154]。『フロム・ヘル』ではこの時間観がプロットの中核を占めており[153]、物語の序盤で主人公ガルの友人ジェームズ・ヒントンの息子ハワードが唱えた数学的な時間理論(『第四の次元とは何か?』)が紹介される。それによると、時間は全体として一つの構造物であり、流れていくように見えるのは人間の知覚の限界でしかない。互いに無関係に見える一連の事象も、四次元世界の幾何学形状が三次元世界に落とした影である。作中の言葉によると歴史には「建築構造がある」[155]。それを裏付けるように、作中でガルは未来の20世紀世界を幻視し、過去や未来の事件に干渉する。
ストーリー構成

ストレートなストーリーテリングが志向されており、ムーアのスーパーヒーロー作品で顕著なメタフィクション性は弱められている[156]。広範な歴史的引喩が行われている一方で、後年の作品『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』のように先行作品のマッシュアップは行われておらず[157]、『プロメテア』のようにコミックメディアによる論説といった性格も薄い[69]


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