フレンスブルク政府
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連合国軍との間でドイツ軍の無条件降伏に向けた敗戦処理の交渉、権威が及ぶ範囲で有力なナチ党員・親衛隊(SS)隊員の要職からの解任を主な執務としたが、ドイツ全土には連合軍によって占領統治が行われており、その影響力は限定されていた。また同盟国である日本も連合国も政府としての承認は行わなかった[1]

5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され[1]、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により中央政府がドイツに存在しないことが確認され、1871年1月から続いたドイツ国の歴史に終止符が打たれた。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、ポツダム宣言の受諾により、敗戦と占領後にも中央政府が存在し続けた日本との大きな差であった。
成立
政府機能の疎開

1945年4月、総統アドルフ・ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕で作戦の指揮を行っていた。ベルリンは既に赤軍の攻撃下にあり、包囲・陥落も時間の問題であった。親衛隊全国指導者・内相のハインリヒ・ヒムラーはかねてから画策していた首都機能の移転を実行するべく、その地を戦災被害が比較的少なかったドイツ北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州[2]に決めていた。国防軍最高司令部のミュルヴィク(ドイツ語版)への疎開経路

4月20日の総統誕生日にヒトラーは国防軍最高司令部(OKW)陸軍総司令部(OKH)空軍総司令部(OKL)、そして閣僚の避難を許可し、ドイツが戦線によって分断された時に備えて、ドイツ北部にいるドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。ヒトラーから全権を委任されたデーニッツはベルリンを脱出し、キールに近いオイティンを経てプレーン(Plon)の海軍総司令部(OKM)に移り、そこで、海軍全般の指揮の他に北ドイツでの難民の輸送、補給作業を指揮することになった。

4月21日、ヒトラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスナチ党官房長マルティン・ボルマンを除く主な閣僚も避難し、OKW総長ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥、OKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将を含む国防軍最高司令部・陸軍総司令部の一部はデーニッツに合流するためプレーンへ、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥を含む空軍総司令部と国防軍最高司令部・陸軍総司令部の大半、総統官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマースはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開した。避難した閣僚の多くはオイティンに移り、4月23日には移転初の閣僚会議が地方議会議事堂で行われた。閣僚会議の議長は閣僚の最年長で財務大臣のフォン・クロージク伯爵が務めている。
ヒトラーの死

一方のヒムラーはプレーンに近いリューベックに移り、スウェーデンの外交官ベルナドッテ伯爵を通じた米英軍との停戦交渉を極秘に行っていた。しかし、この交渉は失敗に終わった。4月28日、ヒムラーの和平交渉の存在がBBC放送で全世界に公表された。ヒムラーの和平交渉を知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーの解任と逮捕を命令した。さらにヒトラーは4月29日未明、総統秘書官のトラウデル・ユンゲに作成させた政治的遺書(英語版)でデーニッツを後継者に指名した。

ただし、デーニッツの地位は総統ではなく、ヒトラーが1934年に制定した国家元首法(ドイツ語版)により権限を吸収して以来空位となっていた大統領に、政権を握った1933年以来のポストだった首相にはゲッベルスを指名していた[3]。また、この遺書ではゲーリング、ヒムラーを裏切り者として非難し、彼らを党から追放すると記してあった[4]。その時、ゲーリングは既に全てのポストから解任されてオーバーザルツベルク駐在のSS部隊に身柄を拘束され、監視下にあった[5]。一方、ヒムラーはデーニッツの元にいたが、彼はヒトラーにこのような宣告をされていたことを知らされていなかった[4]

4月30日午後3時半頃、ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕で夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺した。しかし、この時のベルリンはソ連軍の猛攻下にあり、総統官邸地下壕はほとんど孤立していたため、ヒトラーの死はすぐに外部に漏れることはなかった。
政府成立フレンスブルク政府の閣議が行われたミュルヴィク海軍兵学校内の海軍スポーツ学校(ドイツ語版)

4月30日早朝、デーニッツは総統官房から無線で「ヒムラーがスウェーデンを経由して連合軍と交渉する反逆罪を犯したため、迅速かつ冷厳にSS全国指導者に対処すべし」との指令を受けた[4]。しかし、全ての権限はヒムラーが掌握しており、地上での戦闘力のない海軍総司令官が指令を実行するのは容易ではなかった。また、敵側のラジオ放送を根拠にした点からも懐疑的であり、午後にリューベックでヒムラーと会見した[4]。ヒムラーは敵との接触を完全に否定し[4]、デーニッツも実行の難しい「反逆者の処罰」よりも、ヒムラーが後継者から除外された事実だけを伝えるとともに、「自らは海軍を降伏させるが、海軍軍人として最後の戦闘で死ぬ」と海軍軍人としての決意を固めた。

同日午後にボルマンから特別の暗号解読認証を受けたドイツ海軍通信部隊経由で「総統はゲーリング前国家元帥に換えてデーニッツ元帥を後継者と定められた[6]。今後は現状にて可能な全ての処置を取られたし」(第1号電報)という電文が届けられた[6]。これにより、デーニッツはヒトラーが既に死亡したか、または死を目前にしていると考えた。デーニッツは湖畔を歩き、副官ノイラートに「国家形態をどうするべきか」とつぶやいた。これは後に発表した「三本の柱をもつ憲法(静の元首、行動の政府主席、国民の意思を代表する議会)」の原案[7]について口にした最初であった。デーニッツは「ヒトラーの後継者となることを義務とみなした。国民と軍隊に最良と信ずる道を歩むしかない。」「(軍人としての決意を翻すことが)仮にそれが自分のためには不名誉なものであっても」と副官ノイラートは後に回想している[8]

5月1日午前0時、国内最大の実力者のヒムラーが重武装のSS隊員と共にデーニッツの元を訪れた[9]。デーニッツが第1号電報を示すと、ヒムラーは狼狽し、デーニッツの地位を承認する代わりとして首相の地位を要求した[10]。デーニッツはヒムラーがSS組織の権力を持っていたことから回答を明言しなかったが、ヒムラーは一旦引き下がった[10]

同日午前10時53分、デーニッツの元にボルマン署名の「遺書発効す。自分は速やかにそちらに赴く予定。それまでは公表を控えられるべし」との、ヒトラーの死去という重大な事実については曖昧にしたままの第2号電報が入電した[11]。これはボルマンがヒトラーの死という事実を隠蔽することによって自身の権力を延長しようと図ったものであった[11]。ただ、この電報ではヒトラーの死について明確に述べられていなかったため、デーニッツはその真意を量りかね、しばらくは行動を起こすことができなかった[11]

同日午後3時18分、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる明確な内容の第3号電報がデーニッツのところに到着した[3]


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