フレンスブルク政府
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同日午後3時18分、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる明確な内容の第3号電報がデーニッツのところに到着した[3]。ここではヒトラーの死の事実が初めて明らかにされるとともに、ヒトラーの遺言の概要が伝えられていた[3]。デーニッツはここでヒトラーが死に、自身の大統領就任が発効したことを知った[3]。この第3号電報ではヒトラーの遺言で首相にゲッベルス、ナチ党担当相(ナチ党の党首)にボルマン、外相にオランダ総督ザイス=インクヴァルトが指名されていることも通知された[3]。そして、ボルマンがデーニッツの所へ向かう予定とも書かれていたため、デーニッツは、ボルマンとゲッベルスがプレーンに来たら拘束するよう指示した[3]

デーニッツは第3号電報を受けて、ドイツ国民にヒトラーの死と自らの後継者就任を公表することにした[12]。午後9時から10時25分のハンブルク放送の特別報道でヒトラーの死が発表され、デーニッツ自身がラジオ演説を行い、ヒトラーがベルリンで戦死したこと、自分にヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを報告する[12]。デーニッツはボルシェヴィズムからドイツ軍並びにドイツ国民を守るために戦い続けること、イギリス軍とアメリカ軍とはこれらの行動を妨害する時にのみ交戦すると宣言した[12]。デーニッツの署名の肩書きは海軍元帥(大提督)とだけ記された。なお、ヒトラーは実際には自殺であって戦死ではないし、デーニッツはヒトラーの死の様子の詳細を知らされてはいなかったけれども、あえて「戦死」としたのは、総統ヒトラーが軍人らしい死を遂げたと脚色することによってドイツ軍の忠誠心をつなぎとめる狙いがあったと考えられている。

ヒトラーの遺書は3通作られて総統地下壕から外部(デーニッツ宛、陸軍総司令官に任命された中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー陸軍元帥宛、ミュンヘンのナチ党文書館宛)に送られたものの、いずれも届かなかった[13]。デーニッツは第3号電報で知らされたヒトラーの遺言による閣僚任命(ただし、デーニッツは全閣僚のリストは知らなかった)に驚いたが、出来るだけ沢山の人間を救いつつ戦争をできるだけ早く終結させるための交渉に極めて重荷になる人事を「ヒトラーの死後の命令」として無視することを決意し、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相を閣僚首班(首相代行)に指名し、組閣を依頼した[14]。なお、デーニッツの身辺警護隊としてフォン・ビューロとアリ・クレーマーを指揮官として、水兵による陸戦隊が編成されたほか、潜水艦隊司令長官のフォン・フリーデブルク大将を2月1日付に遡及して海軍総司令官に任じた。

一方、5月1日にゲッベルスはベルリンの総統地下壕において自殺した。デーニッツの政府に合流することによって自らの権力を維持することを狙っていたボルマンは2日未明に総統地下壕から脱出したものの、逃亡に失敗してベルリン市内で自殺した。

5月3日、新政府は拠点をフレンスブルク郊外のミュルヴィク(ドイツ語版)にあったミュルヴィク海軍兵学校へ移した[15]。この際、軍需相アルベルト・シュペーアとヒムラーは共に、ハンブルクの北に位置し、まだ連合軍の影響が及んでいなかったバート・ブラムシュテット(ドイツ語版)へ一時移動して会談、その後ヒムラーは国防軍将校から軍の動向を確認している。

5月5日、「フレンスブルク政府」は初閣議を開いた。また、同日にヒムラーも150人あまりの側近を連れて合流し、ゲシュタポの解体に手をつけたが、この際にSS隊員等の身分偽証工作を行ったとされる。前日のオランダのドイツ軍が降伏したのを受けて脱出したザイス=インクヴァルトはデーニッツと会談し、焦土作戦の中止及びオランダ総督としての留任を確認した(その後、ザイス=インクヴァルトはハンブルクへ逃亡したところで逮捕された)。

5月6日、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者としての大管区指導者ヒンリヒ・ローゼを解任、17時には入閣を望んでいたヒムラーと、東部占領地域相アルフレート・ローゼンベルクを全ての職務から解任したほか、ヒトラー内閣の司法相オットー・ティーラック(この時点では消息不明)、生死不明であったゲッベルスを解任した[16][17]。これらの解任は、フレンスブルク政府が連合国によって容認されやすくするためとも、生え抜きの党幹部の在任が新政府の障害となった事などが理由であるとされる。
降伏交渉カールスホルストで調印されたドイツ軍の降伏文書。「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」および「ヨーロッパ戦勝記念日」も参照

大統領となったデーニッツは、既にドイツがその体制を維持できず、もはや降伏以外に道がないことを承知していた。そして、デーニッツはドイツの最高指導者の地位の継承が「ヒトラーには出来なかったことを成すこと」と了知していた。しかしソ連に降伏した国防軍兵士や難民がソ連軍兵士からの虐殺など容認しがたい被害を受けているとの事実を掴んでもいた。難民らからの聞き取りとソ連軍の占領していた村などをドイツ軍が奪還してからの実地調査から、「殺人、放火、拷問、暴行、略奪」の報告を海軍法務局から既に受けていたのである。このため、デーニッツは西方(イギリス軍アメリカ軍の占領地)での投降は受け入れられるが、東方(ソ連軍)では戦闘を継続し、ソ連側に取り残されている市民や兵士の本国と西方占領地区への避難のルートと時間を確保するべきだと考え、部分的な降伏と東部地域での戦闘継続を画策した。

彼の意向を受けたOKW総長ヴィルヘルム・カイテル元帥及びOKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、西側から侵入する米英軍の方へドイツ軍の残存兵を移動するよう命令した[18]

5月6日、デーニッツはヨードルに連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与えた。翌5月7日、対米英仏連合軍への降伏はフランスランスにおいて調印され、5月8日午後11時1分が停戦発効時間であると定められた。しかし連合軍がベルリンで降伏文書を批准する調印式を要求したため[19]、国防軍代表のカイテル元帥、海軍代表フォン・フリーデブルク大将、空軍代表シュトゥムプフ上級大将らを派遣した。ベルリン時間で5月9日午前0時15分(ロンドン時間5月8日午後11時15分、モスクワ時間5月9日2時15分)[20]、ベルリンのカールスホルストにおいて降伏批准文書が調印された。これらの文書に署名したのは国防軍の軍人のみであり、政府の代表者の署名は行われなかった[1]
解散連行されるフレンスブルク政府首脳
前の軍服姿がデーニッツ、その後にいるのはヨードルとシュペーア。

国防軍の無条件降伏後、軍需相シュペーアはフレンスブルク政府自体が解散しなければならないと提案した。一方、デーニッツとその他の大臣たちは臨時政府として戦後のドイツを統治できるという希望を持っていた。イギリス国民に勝利を宣言するウィンストン・チャーチルのスピーチ「明らかな国家元首であるデーニッツ元帥」という部分は事実上、少なくとも無条件降伏の瞬間までフレンスブルク政府を「ドイツの当局」として認識していたことの証拠であった。しかし、連合国はフレンスブルク政府を即座に解体することを決定した。

5月20日、ソ連政府はそれまでのフレンスブルク政府について考えられていたことを白紙にした。彼らはデーニッツ政府(彼らは「デーニッツ・ギャング」と呼んだ)がどんな権力を持つことも許さず、どんな考えでも厳しく批判、これを攻撃した。『プラウダ』には以下の通り記述された。デーニッツ周辺のファシストギャングどもの威信についての議論はまだ続いており、いくつかの目立った連合軍の集団はデーニッツとその協力者の「活動」を利用することを必要と考えている。イギリス議会でこのギャングどもは「デーニッツ政府」と呼ばれている。(中略)反動的な新聞『ハースト』の記者はデーニッツの兵籍編入を「政治的に賢明な行為」と称した。このように、ファシストの物書きどもはヒトラーの弟子たる略奪者と協力することを正しいと考えている。同時に、ドイツの右翼が差し迫った混乱に似たおとぎ話を作り出したとき、1918年のドイツが条件付けたことを大西洋両側のファシスト報道機関は広めようとしている。その後、降伏の直後、無傷のドイツ軍部隊が東方で新たな冒険に使われた。現在の政治活動にも似たようなものが存在し、連合軍の多くの反動的な集まりはクリミア会議に基づいた新たなヨーロッパを作ることに反対している。これらの集まりはファシスト体制の維持を考えており、すべての自由を愛する国々の民主主義の成長を阻害する手段を取ろうとしている。・・・(後略) ? Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, Page 239

5月13日、国防軍最高司令部総長カイテルが連合軍に逮捕された。


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