卒業後、フレディはバンドに参加しながら、バンドのメンバー、ロジャー・テイラーと一緒に、ロンドンのケンジントン・マーケット(英語版)で古着を販売していた。それ以前には、ヒースロー国際空港でアルバイトをしていた時期もあった。当時の友人は、フレディのことを「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している[14]。フレディは、1969年、バンド「アイベックス(オランダ語版)」(後に「レッケイジ」と改名する)に参加する。このバンドはしばらくして、他のメンバー達の進路の問題で解散する。その後、フレディは音楽雑誌でボーカルを募集していたバンド「サワー・ミルク・シー(英語版)」のオーディションを受け、他のオーディション参加者と格段の差を見せて合格し活動を始めるも、他のメンバー達の事情により、1970年前半に解散する[15]。
1970年4月、フレディはギタリストのブライアン・メイやドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド「スマイル」に加わる。メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオ(英語版)が難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。このバンド名について、フレディは「間違いなく堂々としているし、響きもいい。それに力強さもあって、どこでも通用するわかりやすいネーミングだ。ゲイを思わせるような名前だとわかってはいたが、それはほんの一面にすぎなかった」と語っている[16]。同じころ、フレディはバルサラからマーキュリーに改姓した[17][注釈 1]。
フレディはレッド・ツェッペリンのロバート・プラントを尊敬しており、初期のクイーンはレッド・ツェッペリンの影響を深く受けたサウンドを奏でていた。フレディは1977年3月のインタビューで、「ロバート・プラントはいつも私のお気に入りの歌手だった。彼は私にとても嬉しい事を言ってくれた。彼は実際に「キラー・クイーン」が好きだと言ってくれたんだ。」と語っており、二人はとても仲のいい関係となっていった[19][20][21]。
活動詳細は「クイーン (バンド)」を参照
クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営した。また、クイーンがデビューする直前にラリー・ルレックスという名義でソロ・シングルを発売している。 「ボヘミアン・ラプソディ」「輝ける7つの海」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「懐かしのラヴァー・ボーイ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「プレイ・ザ・ゲーム」と、グレイテスト・ヒッツに収録されている17曲のうち、10曲はフレディが作曲している[22]。1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。 彼の作曲の大きな特徴は、ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコを含む、広いジャンルで作曲していることである。1986年のインタビューでは、「私は再び同じ事をするのを嫌っている。音楽、映画、演劇において、今何が起こっているのかを確かめ、それら全てを取り入れることが好きなんだ」と説明している[23]。多くのシンガーソングライターと比較しても、フレディはいろいろな音楽を組み合わせて作曲する傾向があった。 フレディは世界中のスタジアムでライブ公演を行い、そのパフォーマンスで注目を集めた。
作曲者
ライブパフォーマーフランクフルト公演のフレディ・マーキュリー(1984年撮影)ボトムレス・マイクスタンドによる1979年のライブ