フレディはインドで幼少期の大半を過ごし、7歳でピアノを習い始める[8]。1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う[9]。12歳でスクールバンド「ザ・ヘクティクス(英語版)」を結成し、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバーを演奏していた[10]。当時の友人は、フレディについて「ラジオで聴いた曲を、その後ピアノで再現する、特異な能力を持っていた」と述懐している[11]。
1963年にザンジバルに戻って家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年にはザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人に多数の死傷者が出た。当時17歳のフレディとその家族は、ザンジバルから逃れ[12][13]、イングランドのミドルセックス州フェルサム(英語版)にある小さな家へ移り住み、両親は郊外住宅の使用人として働いた[6]。フレディはウェスト・ロンドン(英語版)にあるアイズルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ(英語版))に入り、働きながら芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジ(英語版)へ進み、2年間芸術とグラフィック・デザインを学ぶ。後年には、クイーンでこれらの技術を用いて衣装をデザインしている[9]。
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、バンドのメンバー、ロジャー・テイラーと一緒に、ロンドンのケンジントン・マーケット(英語版)で古着を販売していた。それ以前には、ヒースロー国際空港でアルバイトをしていた時期もあった。当時の友人は、フレディのことを「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している[14]。フレディは、1969年、バンド「アイベックス(オランダ語版)」(後に「レッケイジ」と改名する)に参加する。このバンドはしばらくして、他のメンバー達の進路の問題で解散する。その後、フレディは音楽雑誌でボーカルを募集していたバンド「サワー・ミルク・シー(英語版)」のオーディションを受け、他のオーディション参加者と格段の差を見せて合格し活動を始めるも、他のメンバー達の事情により、1970年前半に解散する[15]。
1970年4月、フレディはギタリストのブライアン・メイやドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド「スマイル」に加わる。メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオ(英語版)が難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。このバンド名について、フレディは「間違いなく堂々としているし、響きもいい。それに力強さもあって、どこでも通用するわかりやすいネーミングだ。ゲイを思わせるような名前だとわかってはいたが、それはほんの一面にすぎなかった」と語っている[16]。同じころ、フレディはバルサラからマーキュリーに改姓した[17][注釈 1]。
フレディはレッド・ツェッペリンのロバート・プラントを尊敬しており、初期のクイーンはレッド・ツェッペリンの影響を深く受けたサウンドを奏でていた。フレディは1977年3月のインタビューで、「ロバート・プラントはいつも私のお気に入りの歌手だった。彼は私にとても嬉しい事を言ってくれた。彼は実際に「キラー・クイーン」が好きだと言ってくれたんだ。」と語っており、二人はとても仲のいい関係となっていった[19][20][21]。
活動詳細は「クイーン (バンド)」を参照
クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営した。また、クイーンがデビューする直前にラリー・ルレックスという名義でソロ・シングルを発売している。 「ボヘミアン・ラプソディ」「輝ける7つの海」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「懐かしのラヴァー・ボーイ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「プレイ・ザ・ゲーム」と、グレイテスト・ヒッツに収録されている17曲のうち、10曲はフレディが作曲している[22]。
作曲者