フレッド・アステア
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1948年、若手のダンサー兼振付師として「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが『イースター・パレード』の主役を引き受けた。この『イースター・パレード』が世界的なヒットと成功をおさめ、第二次世界大戦後の若手台頭の時期を経て「過去の人」となりかけていたアステアの人気は三たび急上昇する。

MGMの二枚看板としてジーン・ケリーと共に活躍したが、2人の共演は『ジーグフェルド・フォリーズ』と、『ザッツ・エンタテインメント PART2』の2作にとどまる。

1953年には、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作『バンド・ワゴン』に主演した。本作はアステアの長いキャリアにおける一つの頂点と見なされている。この時代のアステアは、RKOでのロジャースとのコンビとは異なり、様々な女優たちとダンスを踊って一枚看板を張れる存在であり、テクニカラー映像や特殊撮影、華麗な音楽などで彩られたMGMミュージカル映画の最盛期を背負って立つ存在であった。
バイプレーヤーに

だが既に60歳近くになっていたアステアは体力の限界を見せており、同時に経費のかかるミュージカル映画の全盛時代も終焉を迎えつつあった。この頃にはダンス無しの純粋な演技でバイプレーヤーとしての実力を見せるようにもなった。核戦争をテーマとした1959年のシリアスな近未来映画『渚にて』では、医師役を演じている。

また1950年代以降のテレビジョンの爆発的普及に併せて、『スパイのライセンス』や『宇宙空母ギャラクティカ』などのテレビドラマにも多数出演している。1968年のフランシス・フォード・コッポラが監督した隠れた佳作『フィニアンの虹』がミュージカル映画への最後の出演となった。
晩年

晩年はヒット映画『タワーリング・インフェルノ』などへの助演で渋味のある演技を見せるなどし、アカデミー賞助演男優賞候補にノミネートされた。ゲスト出演的な例外を除いて1970年代半ばに引退したが、進行役としてミュージカル映画全盛期を回顧した名場面集映画『ザッツ・エンタテインメント パート2』出演では、余興としてジーン・ケリー共々、短くも軽やかなダンスを披露し、第一人者としての貫禄を示した。

ほとんど隠退した後も最晩年まで自宅でのダンスの習練を怠らなかった。1983年マイケル・ジャクソンが一世を風靡した「ビリー・ジーン」のムーンウォークを見ると自ら挑戦し、マイケルが直に教えたりもして、既に1980代半ばの身でありながら、これを鮮やかにマスターしていたという(マイケル・ジャクソンとの関係は下記参照)。
死去

1987年8月22日に、カリフォルニア州ロサンゼルスで死去した。88歳であった。なお死去後の1989年に、グラミー賞の特別功労賞を[1]1999年に『ザ・フレッド・アステア・ストーリー(英語版)』(1952年発表の4枚組LP)でグラミーの殿堂入りを果たした[2]
評価

アステアのエレガントなダンスには「洗練」という言葉が最も当てはまる。アステアはダンスに洗練と品格の両方を備えさせることに成功した、二十世紀を代表するダンサーであり不世出の天才と言える。正統派のダンス・ファッション共々「粋」を極めたダンサーであった。

後世に与えた影響も大きく、マイケル・ジャクソンなどもアステアの大ファンで「もっとも影響を受けた人物の一人」と発言しており、幼い頃からアステアの真似をしたり、アステアごっこをして妹のジャネットと遊んだとも語っている。自分たちのテレビショーで兄弟全員でアステアの「踊るリッツの夜(英語版)」をカバーしたこともある。ソロになってからも自身のパフォーマンスにおいて一部ステップを取り入れている。

またアメリカにおいてアステアは紳士の代名詞としても有名で、名実ともにミュージカル俳優の鑑であった。米俗語として「アステア=ダンスの上手い洗練された男性」があるという。

優れたダンサーとしての面ばかりが強調されがちだが、歌手としてもアステアは一流であり、同時代に一世を風靡した歌手のビング・クロスビーのクルーナー・スタイルとも通じるスムースさと、ダンスで培われたリズム感とを伴った軽やかな歌唱で、しばしばヒットチャートをにぎわせた(アステアとクロスビーは、クロスビーの最晩年である1975年カーペンターズのヒット曲『シング』などをデュオした録音を残しており、ここでは老いてなお二人に共通した歌唱スタイルがあることをうかがわせる)。1952年発表の4枚組LP『ザ・フレッド・アステア・ストーリー(英語版)』は、1999年グラミーの殿堂入りを果たしている[2]

そしてジョージアイラのガーシュウィン兄弟、コール・ポーターアーヴィング・バーリンジェローム・カーンなど、1930年代から1950年代にかけてのアメリカを代表するソングライター達はアステアのために膨大な楽曲を提供し、それらの曲はのちにはスタンダード・ナンバーとなったものも多い。
プライベート

プライベートでのアステアは、シャイで紳士的な人物だったという。社交界で派手に遊ぶタイプではなかった。映画界入りを考えていた頃、ボストンの富豪の娘のフィリス・ポッターに恋をする。ポッターは最初、スターであるアステアを知らなかった。人妻であったがやがて離婚し、1933年にポッターと結婚した。約21年間結婚生活を送るも、ポッターは脳腫瘍に罹り、46歳の若さで急逝した。「足ながおじさん」の撮影中で降板を検討したが、周りに励まされ撮影に復帰した。愛妻の死で悲嘆に暮れたアステアは長年を独り身で過ごした。

晩年に女性騎手のロビン・スミス(当時35歳)と出会い、1980年に再婚。スミスと年の差があったため周囲に反対され、アステアは駆け落ちまで考えたらしい。何とか周囲を説得したが、この再婚は成功であった。アステアが1987年に88歳で亡くなるまで、スミスと幸せに過ごしたという。
日本との関わり

第二次世界大戦前の日本でもその評判が高く、浅草レビュー街などではアステア&ロジャースを真似て舞台に上がる日本人ダンスチームが大勢いたほどの人気だったという。

馬主だったアステアの持ち馬のうち、もっとも優秀だったトリプリケイトは日本のブリーダーに売却されたことがある。

1957年(昭和32年)8月、在日米軍に勤務していた義理の息子に会うため観光も兼ねてプライベートで来日したことがあり、当時、淀川長治が編集長を務めていた「映画の友」編集部を訪れ、ポーズを決めたり、ステップを踏んだりして終始ご機嫌だったという。また、落語家立川談志はその折にアステア一行と銀座で偶然会いサインを貰ったと自著に記している。

出演作品
映画

ダンシング・レディ - Dancing Lady(1933年/MGMジョーン・クロフォードの相手役として、主演のクラーク・ゲーブルに代り、ダンスシーンのみにゲスト出演。

空中レヴュー時代 - Flying Down to Rio(1933年/RKO)はじめてジンジャー・ロジャースとコンビを組み、「カリオカ」を演じる。映画のなかでは脇役だったが、一挙に人気を博し、次回作では主演に抜擢される。

コンチネンタル - The Gay Divorcee(1934年/RKO)ロジャースとのコンビによる主演第1作。姉アデールと共演したミュージカル「陽気な離婚」を映画化したもので、2人の人気を不動のものにした。特にコール・ポーターの「夜も昼も」でアステアとロジャースが踊るシーンは有名。

ロバータ - Roberta (1935年/RKO)ロジャースとの共演第3作。前作同様舞台版の映画化であり、歌曲は原作の作曲者ジェローム・カーンが担当。アステアが後に「もっとも気に入ったダンス」のひとつに挙げたラストシーン「煙が目にしみる」は、歌曲のよさもあいまって爆発的なヒットとなった。

トップ・ハット - Top Hat (1935年/RKO)ロジャースとの共演第4作。歌曲はアーヴィング・バーリンが担当。5つあるミュージカル・ナンバーはいずれも秀逸だが、特に「頬寄せて」はアステア&ロジャースの名声を不朽のものにした佳品であり、アステアのソロ「トップ・ハット、ホワイト・タイ、アンド・テール」で燕尾服にトップ・ハットというアステアのイメージは不動のものになる。


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