フルート
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『喜びを与えん』
作者不詳(1520年頃)

西洋では、現在リコーダーと呼ばれている縦笛が古くから知られており、当初はこちらが「フルート」と呼ばれていた。12-13世紀ごろに東洋から6孔の横笛が入り、縦笛の技術を応用して作られたものが主ににドイツ地方で使われ、「ドイツの笛」と呼ばれていた(ドイツでの呼び名は「スイスの笛」)[8]13世紀になるとフランスに、「フラウスト・トラヴェルセーヌ(フランス語: flauste traversaine;「横向きのフルート」の意)」といった名称が散見されるようになる[9]。ルネサンス期に入っても、ヨーロッパでは横笛はあまり一般的な楽器ではなく、軍楽隊や旅芸人などが演奏するだけのものであった。16世紀に入る頃から、市民の間で行われるコンソートと呼ばれる合奏の中で、横笛も次第に使われ、教科音楽でも用いられるようになった。左図はオーストリアのローラウ城ハラッハ伯爵家所蔵の『喜びを与えん』と題する絵画[5][10]、横笛とリュート歌唱によるブロークン・コンソートの様子が描かれている。この絵の横笛はテナーであるが、マルティン・アグリコラの「Musica instrumentalis deudsch」(1529)[11]にあるように、他にもソプラノアルトバスといった種類があり(ただし16世紀半ばにはアルトはテナーに吸収されている)、これらを持ち替えながら演奏を行い、ホール・コンソートも行われていた。現在では、このような横笛を「ルネサンス・フルート」と呼んでおり[5]、古楽器として今も復元楽器が製作されている。ルネサンス・フルート(テナー、復元楽器)

少数がイタリアヴェローナなどに残っているオリジナルの物は、木製の管で、内面は単純な円筒形ではなく、複雑な波型になっており、外面は歌口側がやや太い円錐形である。基本的に一体成型されて分割できないものが多いが、大型のバス・フルートなどには2分割構造のものもある。テナーの横笛の最低音はD4で、D-dur(ニ長調)の音階が出せるように作られており、いわゆるD管である。トーンホールが6つ開いているだけのシンプルな構造なので、キーを必ず右側にして構えるモダン・フルートとは異なり、左側に構えることもできる。軽快によく鳴るが、音域によって音量や音色がかなり変化する[5]。アグリコラの著作に記された運指法では半音は指孔半開で出せると記されているが、通常の演奏で半音を出すのはかなり難しい(内部が円筒形の復元楽器ではなく、オリジナルの物は内径の形状によっては半音が比較的出しやすいものもある[12])。
バロック時代

17世紀初頭から始まったバロック時代、ルネサンス・フルートはピッチの調節ができない上、半音を出すのが苦手で、低音と高音の音色の違いが大きいといった欠点があったため、この時代に隆盛し始めた宮廷音楽では用いられなかった。17世紀は横笛にとって雌伏の時代であり、新たな工夫が加えられた横笛が改めて人気を博するのは、ジャック・オトテールとその一族がフランスでフルートを改良して広めた1680年代以降のことである[5]

この時代も、単に「フルート」といえば縦笛(リコーダー)のことであり、現在のフルートの原型となった横笛はイタリア語で「フラウト・トラヴェルソ、フランス語で「フリュートトラヴェルシエール flute traversiere」、ドイツ語で「クヴェアフレーテ Querflote」すべて(横向きのフルート」の意)と呼ばれていた[5][10]。省略して単に「トラヴェルソ」とも呼ばれ、現代では「バロック・フルート」と呼ぶこともある。ソプラノからバスまでを使い分けたルネサンス・フルートと異なり、バロック・フルートの多くは、テナーのD管であり、次のような点がルネサンス・フルートと異なっている[5][13]バロック・フルート(4分割型、復元楽器)
上方はピッチの異なる替え管

管体が3分割、のちに4分割されており、結合部を抜き挿ししたり管を交換することによって、ピッチの調節が可能になった。

トーンホールは7つに増え、上流側の6つはルネサンス・フルートと同様に指で直接ふさぐ。最下流の1つは指が届かないので、右手小指で押すと穴が開くシーソー形のキーが付いており[注 1]、この形態から「1キー・フルート(1鍵式フルート)」とも呼ばれている[14]。このキーのおかげで、ルネサンス・フルートには最も出しにくかった半音D#(E♭)が容易に出せるようになった[注 2]

管の内面はルネサンス・フルートのような円筒形ではなく、頭部管から足部管に向かって次第に細くなる円錐形になっている。これによって、ルネサンス・フルートの明るく開放定期なものから、ややこもった暗い感じに音色が変化したものの、低音から高音まで音色の統一感が向上した。アムステルダムの木管楽器製作家リチャード・ハッカ(1645年 - 1705年)の作った3分割フルートが、現存する最古のバロック・フルートであるとされるが、この仕組みがいつ頃誰によって最初に考え出されたのかは定かではない[5]

こうした改良によって高い表現力を身に着けた横笛は、オトテールとその一族が仕えるルイ14世の王宮で人気を得て、次第に縦笛に取って代わる存在となっていった。フランス音楽の受け入れに積極的だったドイツの宮廷ではフランスのフルート奏者を好んで雇用するようになり、そこからドイツ人のフルート奏者も育っていった。その代表例がザクセン選帝侯の宮廷に仕えたフランス人フルート奏者のピエール=ガブリエル・ビュファルダンと、ビュファルダンの勧めでフルートと奏者となったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツである[5]

当時のフルートは最低音はD4、最高音はE6までというものが一般的であるが、B6までの運指が知られており[14]、A6あたりまでは出しやすい楽器もある。D管であるが、楽譜は実音で記譜され、移調楽器ではない。多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能であることから、バロック・フルートは今日なお復元楽器が多数製作されている。五度圏

しかし、キーが設けられた半音は出しやすくなったものの、それ以外の半音は相変わらずクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な音なので、長調について考えると、五度圏の図でD-dur(ニ長調)と隣り合うG-dur(ト長調)とA-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できるが、ニ長調から遠い調の曲をバロック・フルートで演奏するのは容易なことではない[5]
古典派?ロマン派初期

18世紀半ばから19世紀前半にあたる古典派の時代になると、より多くの調に対応できるよう、不安定な半音を改善するために新たなトーンホールを設けて、これを開閉するキーメカニズムを付け加えたり、高音域が出しやすいよう管内径を細くするといった改変が行われた。キーメカニズムを用いて、D管のままではあるが最低音がC4まで出せるフルートも作られるようになった[5]。これらの楽器もフラウト・トラヴェルソに含まれるが、バロック時代の「バロック・フルート」と区別して、「クラシカル・フルート」「ロマンチック・フルート」と呼ぶこともある。この時代になると、表現力に劣る縦笛(リコーダー)は廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになった。クラシカル・フルート (6キー、最低音 D4)

キーが追加されるに従って、クロスフィンガリングを用いずに出せる半音が増えていき、音は明るさや軽やかさを増したが、対称性が崩れたため、左側に構えることはできなくなった。管体は相変わらず円錐形で木製のものが多く、最高音はA6あたりであるが、中にはC7付近まで出るものもある。最低音がD4の6キー・フルート(右図)や、最低音がC4の8キー・フルートなどには全ての半音を出すキーが備わっているが、Esより下のキーを除いて全て「常時閉」であり、「必要なときだけ開ける」方式であった。

クロスフィンガリングが不要になったのは大きな進歩に違いないが、これらは当時の楽器製作者たちが、それぞれの考えに基づいて改良していったため、操作法が統一されていない上、運指も複雑となって運動性能が良いとは言い難く、必ずしも十分な効果が得られたわけではない。このような多キーのフルート(多鍵式フルート)は主に産業革命期のイギリスで開発されたのであるが、イギリス以外の国ではバランスの悪い不細工な楽器とみなす傾向が強く、1795年に創設されたパリ音楽院では、初代フルート教授となったフランソワ・ドゥヴィエンヌ1759年 - 1803年)が亡くなるまで、1鍵式フルート以外の使用が認められなかった[5]

こうしたフルート乱開発の時代に終止符を打ったのがテオバルト・ベームである。
ベーム式フルートの登場

1820年ごろから活躍していたイギリス人フルート奏者 C. ニコルソン(Charles Nicholson 1795年 - 1837年)は、その手の大きさと卓越した技術によって通常よりも大きなトーンホールの楽器を演奏していた。ドイツ人フルート奏者で製作者でもあったテオバルト・ベームは、1831年ロンドンでニコルソンの演奏を聴いてその音量の大きさに衝撃を受け、自身の楽器の本格的な改良に着手した[4][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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