マイケル・ピーター・バルザリー(以下、フリー)は、オーストラリアの平凡な家庭で育った。しかし、実父の仕事の都合でニューヨークに転居して、4年後の1972年、母がジャズ・ミュージシャンと恋に落ち、両親は離婚してしまう。母は、そのミュージシャンと再婚し、実母と継父・実姉の4人で、ロサンゼルスへ居を移した。
フリーは、幼い頃から音楽に熱中しており、ドラムを叩いていた。父もまた、週末毎にジャム・セッションを行う生活で、フリーもそのような音楽に囲まれた環境で育っていった。そうした中、9歳の頃に吹き始めたトランペットはあっという間に上達して行き、Los Angeles Junior Philharmonic Orchestra に所属すると共に、11歳になる頃には、父とジャムセッションが出来るほどの腕前になっていた。
高校生になるまでは、ロックには全く興味が無く、ただ、父のようなジャズ・ミュージシャンになりたがっていた。 幼少期をオーストラリアで過ごしたフリーは訛りが抜けず、ロサンゼルスのフェアファックス高校時代は、それが原因で同級生からいじめを受けていたが、その中でアンソニー・キーディスやヒレル・スロヴァクと親友になり、音楽的な繋がりはもちろん、麻薬パーティなども行うようになっていった。その一方で、トランペットの腕前は上がって行き、Fairfax School Orchestra では、首席トランペットを務めるまでになっていた。 やがて、スロヴァクからロックミュージックを教えられると、だんだんとレッド・ツェッペリンやキッス、クイーン、ジミ・ヘンドリックスらへ関心は移っていった。そして、スロヴァクとジャック・アイアンズが在籍していたバンド Anthym は、バンドに引き入れるための素養のあるベーシストを育てるべく、フリーをバンドに誘った。ベースの腕は、スロヴァクらの指導と天性の音楽的才能ですぐに上達していった。これにより、音楽性の上がった Anthym は名を上げていき、クラブ・ツアーをするようになっていった。 やがて、そのテクニックからベーシストとして名を馳せるようになり、パンク・ロック・バンド、フィアのオーディションを1981年に受けてメンバーになった。また、ジョン・ライドンの勧誘でパブリック・イメージ・リミテッドとジャムを行うが、こちらのバンドは加入を断った。 そして1983年に、フリーとキーディス、スロヴァク、アイアンズの4人の一度きりのバンド企画が持ち上がった。しかし、破天荒なライブが好評だったため、一度きりでは終わらず、レッド・ホット・チリ・ペッパーズとして活動を開始する。フリーは、フィアを脱退してチリ・ペッパーズに専念、半年後にEMIとレコード契約するに至った。 他のアーティストからも信頼が厚く、ゲスト参加も多い。ミック・ジャガーの『ワンダーリング・スピリット』(1993年)やD.T.Construction 『バイ・ザ・ウェイ』製作の際は、ジョンとの対立により「本気で脱退を考えた」と『ステイディアム・アーケイディアム』発表後のインタビューで語っているが、「現在はお互い尊重しあって最大限の主張を出来る境地に至った」とのこと。ちなみに、フリーの2人目の娘の名付け親は、ジョンである。 2009年10月、トム・ヨークらと共に「Eraser Band」(後にアトムス・フォー・ピースと名乗る)としてのライヴ活動を開始し[1]、2012年9月にはアトムス・フォー・ピースによる初のシングル「Default」を発表した[2]。 スラップ、休符を多用するファンク的アプローチと、高速でベースを弾き激しいステージングを行うパンク的アプローチを混ぜた、いわゆるミクスチャーロックベーシストのパイオニア。スラップ奏法をロックに持ち込んだ人物の一人である。スラップのモーションは、ファンク、フュージョン系ベーシストに多いいわゆる親指上向きのものとは違い、五指を下向きにして横の回転運動で叩くように行う。プルは人差し指ではなく中指で行う。代名詞であるクレイジーなステージングは初期から変わっていない。また、トランペット奏者としても高い技術を持っており、レコーディングやライブなどでも披露している。 スラップ奏法を多用して、バンドをリードする役割を担う。基本的にほぼ指弾きである。若い頃は高度な技術を惜しげもなく披露している。4thアルバム『母乳』までのチリ・ペッパーズの楽曲はほとんどがベースラインを中心に構成されており、そもそもバンドの結成理由がアンソニーのラップとフリーのベースラインのマッチングが上手くいったことに起因することも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』では、手数の多いパンク・メタル要素を意図的に回避し、休符を生かすような重みがあってさらにファンキーなプレイを志向しているため、スラップを多くの曲で最小限に留め、それまでのスタイルとはまた違ったプレイを見せている(映像作品『Funky Monks』では、その心境の変化をフリー自身が語っている)。 ギタリストジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましくなり、メロディー路線に徐々に移行していった後期以降は、これまでの高速スラッププレイというより、歌伴ベーシストのようなコードのツボを押さえてメロディーを生かすプレイが多くなっている。長尺ソロをとる楽曲が多い『ワン・ホット・ミニット』、集大成的作品である『ステイディアム・アーケイディアム』などでは、以前のようなスラッププレイを多用した楽曲もいくつか見られる。また、指弾きでなくピック弾きのニュアンスを生かした楽曲も増えてきている。『アイム・ウィズ・ユー』では、ピアノも演奏している。 「同じことを繰り返して、成長しないというのは絶対にイヤだね。人間として成長すれば、音楽も成長し、そして変化する。オレたちは成長したい、変化したいっていつでも思ってる。それが最も重要なことさ」[3] 2016年アメリカ合衆国大統領選挙では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズとして民主党のバーニー・サンダースを支持した。詳細は「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ#政治姿勢」を参照 ドナルド・トランプについては、次のように語っている[4]。ドナルド・トランプや彼の言ったことを真面目に受け取る気にはなれないよ。彼はリアリティー番組のマヌケな道化師だし、注目を浴びるのが好きな威張り屋としか思えないんだ。大統領になりたがっているとは思えないし、それにチャンスもないと思う。 また、ドナルド・トランプの移民とテロに関する物議をかもしたコメントは、メディア受けを狙ったものだろうと考えており、次のように語っている[4]。自分の発言を信じてるとは思えないよ。もし十分に大声で叫ぶか、怒鳴りちらせば、みんな注目してくれるだろうという計算だろうね。彼がメディアを使い、メディアもそれを楽しんでる。すべてが本当にくだらなくて、話題にするのも戸惑うくらいだよ。 一部の作品にはトランペット奏者として参加。
高校時代
ミュージシャンとして
プレイスタイル
チリ・ペッパーズ初期
チリ・ペッパーズ後期
発言
政治姿勢
ゲスト参加作品
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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