フリードリヒ2世_(プロイセン王)
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しかし、それでも彼女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。

赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。父王の意に沿って軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇にはげむ優雅な時間を過ごし、また著作も試みている。多くの書簡集のほか、フリードリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。反マキャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサンス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべしと主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。この本は後に、文通相手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数か国語に翻訳されている。しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテールにも非難されることになる。
即位後
啓蒙主義的改革1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ

1740年5月31日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は崩御し、フリードリヒはフリードリヒ2世として即位した。即位後ただちにフリードリヒ2世は啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス語ドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。

自由を実現する一方、フリードリヒ2世は父から受け継いだ8万の常備軍を、周囲の予想に反してさらに増員し、戦争に備えていた。ただし、父の作った巨人連隊は廃止された。
オーストリア継承戦争 (1740年-1748年)ハプスブルク家の相続問題については「マリア・テレジア」を、オーストリア継承戦争全体については「オーストリア継承戦争」を、シュレージエン侵攻の理由については「シュレージエン戦争」を参照
第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)戦役の詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照

1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリードリヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2世は1740年12月16日宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイセン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した[4]。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いでプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けることに成功する。5月にバイエルンフランススペインニンフェンブルク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ[5]。フランスはプロイセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯ポーランド王アウグスト3世ボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリアと同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスとむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエルンを奪われた。

フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いハプスブルク帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認めさせた[6]

フリードリヒは、士官の膝枕で仮眠をとったり、負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチを差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との交流を好み、絶大な人気を得ていた。
第二次シュレージエン戦争 (1744年-1745年)戦役の詳細については「第二次シュレージエン戦争」を参照

1744年、イギリスと組んだマリア・テレジアの反撃に対して、フリードリヒ2世はカール7世のバイエルンと組んでベーメン(ボヘミア)に侵攻したが、敗れた(第二次シュレージエン戦争[6]。しかし1745年6月4日のホーエンフリートベルクの戦いでプロイセンは大勝利を収め、さらに1745年12月15日ケッセルスドルフの戦いでもザクセン軍に勝利した。12月25日ドレスデンの和議でプロイセンは、マリア・テレジアの夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりにプロイセンによるシュレージエン領有権を承認させ、ザクセンからの賠償金100万ターラーも得た[6]
戦間期サンスーシ宮殿サンスーシ宮殿音楽演奏室。「サンスーシ宮殿」を参照

戦後の日々、フリードリヒ2世はプロイセンの復興に全力を尽くした。細かい点まで自分で確かめなくては気の済まない王のチェックに官僚たちは恐々としたが、産業の振興、フランスからやって来たユグノーカルヴァン派)の移民などの受け入れなどによってプロイセンは再び力を付けていった。しかし、激務のためフリードリヒ2世の体は蝕まれ、リウマチ、歯、胃痛、痔、発熱、痛風などで絶えず痛みと戦わなければならなかった。そんな王の心を慰めたのが、1745年から1747年にかけて完成したクノーベルス男爵の手によるサンスーシ宮殿だった。王自らも設計にたずさわったこの宮殿は、ロココの粋を尽くし、室内は「フリードリヒ式ロココ」(Friderizianisches Rokoko)様式による瀟洒なものだったが、部屋数わずか10あまりの平屋建ての小さな建築である。ここで王は政務のかたわら、ヴォルテールなどごく少数の気が置けない友人たちと音楽や社交を楽しみ、くつろいだ時間を過ごした。
七年戦争 (1754年-1763年)詳細は「七年戦争」を参照

平和な日々は長くは続かず、1755年後半、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。


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