1823年11月29日、バイエルン国王マクシミリアン1世の娘で再従妹(祖母同士が姉妹)のエリーザベト・ルドヴィカと結婚した。この婚姻はホーエンツォレルン家とヴィッテルスバッハ家の結びつきを強めることを意図していた。バイエルン王室の王女がプロイセン王室からの求婚を受け入れた上で、ベルリンに長旅をすることに皇太子は多大な配慮を示した。
政治的な面ではこの婚姻を理解していたにもかかわらず、プロイセン側もバイエルン側でも結婚に際して両王室の宗派の違いが障害になった。プロイセン国王がカトリック信仰の王妃を受け入れることは不可能なため、王妃の改宗が必要であった。しかし、婚姻を前にしてエリーザベト・ルドヴィカはカトリック信仰から福音主義信仰への改宗を拒んだ。この困難な状況において、プロイセン皇太子は信仰に関する王妃の毅然たる態度を尊重すると言明した。
その後、両者の外交的尽力によって妥協点を見出すことに落ち着いた。王妃エリーザベト・ルドヴィカは当分の間カトリック信仰を保ち続けるが、福音主義信仰の教説に関する講義を受けることが義務づけられた。その上、日常生活におけるカトリック信仰の実践も約束されていた。プロイセン宮廷での長い生活を経て、最終的にはホーエンツォレルン家の改革派信仰への改宗がエリーザベトの自由意志でおこなわれた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とエリーザベト・ルドヴィカの結婚生活は幸せであったと全ての者たちから証言されているが、子供は出来なかった。当時の医師クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントによって、王位継承者であった皇太子時に勃起不全と診断されていたと言われている。 父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世統治時代のプロイセン王国において、前近代的な国際秩序としてのウィーン体制に基づく政治が支配的になっていた。当時のドイツ全土において民族主義的統一運動のような市民的自由を希求する運動(ブルシェンシャフトなど)が検閲によって押さえ込まれていた。1836年だけで204人の蜂起学生たちが拘束され、学生数人には死刑判決も出された。 同様に、混宗婚をめぐってローマ・カトリック教会との果てしない対立がプロイセン王国において生じていた。1825年、混宗婚法がプロイセン全域に適用された。しかし、多くのローマ・カトリック教会司教がその法を無視したため、ケルン大司教他数人の高位聖職者が政府によって逮捕、拘束された。そのため、プロイセン王国における政府とローマ・カトリック教会との対立は激しさを増していた。 1840年6月7日にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は国王に即位した。その即位は自由主義派と保守派を新たな国王への大きな期待で結びつけた。数千人の聴衆を前にして演説した最初のプロイセン国王であったので、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がその期待に沿っているように見えた。1840年9月10日のケーニヒスベルクと10月15日のベルリンでのプロイセン王国の立場表明に際して(彼の父王による憲法制定の約束を確認した)の発言であった[1]。 彼は父王のおこなった復古的、抑圧的政治を終わらせた。同時にローマ・カトリック教会との対立も大きな譲歩をすることで解消させた。同様に、彼は古ルター派に向けた抑圧政策も終わらせた。その結果、逮捕されていた牧師は釈放され、古ルター派教会による独自教会組織結成も許され、教会堂の建設も認められた。ただし、古ルター派教会には教会塔の建設と鐘を鳴らすことを禁じる制約が課せられた。また前王の時代に逮捕されていたフリッツ・ロイターやフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン
即位前の政治状況
治世
統治開始
1840年から1857年までフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はスイスのヌーシャテル (ノイエンブルク)侯でもあった。