フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー
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突撃隊の地位は維持したものの、レームの後任となったヴィクトール・ルッツェによって突撃隊制服の着用を禁じられ、一時党内で実務を失った。1934年10月26日に突撃隊を離れ、同時に体育局長官に任じられた[3]
親衛隊指導者

しかし1935年1月25日に総統アドルフ・ヒトラーより再度親衛隊(SS)に移るように命じられ、階級は最初親衛隊少尉であったが総統命令により親衛隊大将に転じた。1936年3月1日より親衛隊本部に配属され一般親衛隊の国境警備総監、1937年1月26日からは親衛隊名誉法廷の裁判長となった。1938年5月16日に親衛隊騎兵総監に就任、また1939年1月よりドイツ馬術スポーツ最高機関長に就任した。1937年7月20日から1939年の間民族裁判所の名誉判事を務めた[5]。さらに様々なナチ党イベントでのヒトラーの代理人を務めるようになった。
ポーランド総督府

第二次世界大戦開戦後の1939年10月4日にヒムラーからドイツ軍が占領したポーランドロズ軍政地区を管轄するの「ロズ」親衛隊及び警察高級指導者に任命されるが10月9日に「中央国境地区」親衛隊及び警察高級指導者に変更されている。また10月4日付で東部方面行政管区の親衛隊及び警察高級指導者に任命されている[5]

10月26日にポーランド総督府を管轄する「オスト」親衛隊及び警察高級指導者に任命され[5]、また1942年5月7日よりポーランド総督ハンス・フランクからも保安担当次官に任じられた。これによりクリューガーはポーランドで行われたユダヤ人大虐殺をはじめとする数々のナチスの戦争犯罪に責任を負っている。さらに9月15日より親衛隊上級地区「オスト」の司令官となる[6]。在任中の1943年4月20日にクリューガーはポーランドの秘密組織「PZP」の爆弾テロによる暗殺のターゲットになったが、助かっている。しかし1943年11月にはポーランド総督ハンス・フランクと不仲になり、親衛隊及び警察高級指導者及び総督府保安担当次官職はヴィルヘルム・コッペSS大将に交代させられることとなる。
武装親衛隊

1943年11月から1944年4月にかけて第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」に配属され、ドイツ支配下のユーゴスラビアで治安維持任務にあたった。同地でも民間人への虐殺をおこない、悪名をとどろかせた[7]。1944年5月20日から1944年8月26日まではフィンランド北方で第6SS山岳師団「ノルト」の師団長となった。1944年8月26日から1945年2月15日には第5山岳軍団の司令官となる。1945年2月20日からはドイツの南東戦線のヒムラーの代理人の仕事を行った。
最期

1945年4月から5月にかけてオーストリアで南方軍集団に属した秩序警察の特殊部隊の指揮を執っていたが、まもなくドイツが無条件降伏。祖国の敗戦を知ったクリューガーはオーストリアで自決した[8]

兄のヴァルターも5月22日に自決している。
人物

信仰はプロテスタントだったが、親衛隊の方針に従って教会を離れている[9]
家族

1922年9月16日にエリーザベト・ラーゼホルン[# 1]と結婚。三人の子供の父親となった[9]
キャリア
階級

出典[10]

1914年3月22日:少尉

1919年:中尉

1930年8月:親衛隊志願兵

1931年2月1日:親衛隊二等兵

1931年3月16日:親衛隊少尉

1931年4月3日:突撃隊少尉

1931年7月31日:突撃隊上級大佐

1931年9月10日:突撃隊中将

1933年6月27日:突撃隊大将

1935年1月25日:親衛隊少尉

1935年1月25日:親衛隊大将

1941年4月8日:警察大将

1942年5月7日:次官

1944年7月8日:武装親衛隊大将

受章

出典[9]

騎士鉄十字章 叙勲1944年10月20日[11]


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