フリードリヒ・ヘルダーリン
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1770年3月20日ネッカー河畔の町ラウフェンに生まれた。父ハインリヒ・フリードリヒ・ヘルダーリン(1736年 - 1772年)は尼僧院の説教師、母ヨハンナ・クリスティアーナ・ヘルダーリン(旧姓ハイン、1748年 - 1828年)は牧師の娘であった。ヘルダーリンは長男であり、父母はその後2子をもうけたが、ヘルダーリンがまだ2歳3ヵ月のときに父が卒中で死去した。この2年後、母は官吏ヨハン・クリストフ・ゴック(1748年 - 1779年)と再婚し、一家はゴックの勤め先であるニュルティンゲンに移住した。母とゴックとの間には4人の子が生まれたが、この義父も結婚から7年後に高熱がもとで死去した。なお、母ヨハンナがもうけた7人の子供のうち成長しえたのはヘルダーリンと2歳下のハインリーケ、異父弟のカールのみで、残りの4人はまだ幼いうちに死去している。

1779年からニュルティンゲンのラテン語学校に通った後、1784年10月に国家試験を受けてデンケンドルフ初等僧院学校に入学、1786年から上級課程にあたるマウルブロン校に通った(マウルブロン校はおよそ100年後にヘルマン・ヘッセが通う神学校であり、ヘッセはここからの脱走の過程を『車輪の下』で描いている)。在学時ヘルダーリンはクロプシュトックシラーオシアンなどの詩を読み、自らも多くの詩を作った。ことにシラーに関しては、その詩風のほかに美学論文からも多大な影響を受けている。

1788年テュービンゲン大学神学校に入学する。同級生であったヘーゲルシェリングと親交を結んだ。2人とともにカントライプニッツスピノザの哲学を学び、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの『スピノザ書簡集』を通じてスピノザの汎神論に感銘を受けている。1789年にはフランス革命に感動し「自由賛歌」「友情賛歌」などの長詩を書いた。

1791年、ゴットホルト・フリードリヒ・シュトイドリーンによる『1792年版 詩神年鑑』に「調和の女神への賛歌」など数編の詩が掲載され、詩人としてのデビューを飾る。翌年の『1793年版 詩歌選』にも多数の参加が掲載された。1793年5月には『ヒュペーリオン』の第一稿(現存しない)をシュトイドリーンの前で朗読している。
家庭教師時代

1793年6月に大学を卒業, 聖職に就くことを拒否し、シュトイドリーンの推薦によってシラーに紹介され、シラーの友人でヴァルタースハウゼン(ドイツ語版)に住むシャルロッテ・フォン・カルプ(ドイツ語版)の息子フリッツの家庭教師となった。ヘルダーリンは教師をしながら『ヒュペーリオン』の執筆を進め、若い未亡人ヴィルヘルミーネ・キルムスと親しくなった。1794年、フリッツとともにイェーナに滞在、イェーナ大学でフィヒテの講義を聴き、シラー、ゲーテ、フィヒテと知り合った。この年11月、シラーの編集の『ターリア』に『断片ヒュペーリオン』が掲載される。1795年1月にカルプ家との雇用関係を解消し、6月に故郷ニュルティンゲンに戻る。記念帳へのヘルダーリンのサイン(イェーナ、1795年)

1796年フランクフルトの銀行家ヤーコプ・ゴンタルトの長男ヘンリーの家庭教師となる。ゴンタルト家の夫人ズゼッテ(ドイツ語版)に強い愛情を抱き、彼女は『ヒュペーリオン』における運命の女性ディオティーマのモデルとなった。1798年春第1巻がコッタ出版より刊行されている。この時期フランクフルトでシェリング、ヘーゲルと再会し、論文断片「ドイツ観念論最初の体系計画」を共同で執筆した(1796年末 - 1797年2月頃)。しかしゴンタルトがヘルダーリンと夫人との恋愛に気付くようになり、1798年に家庭教師を辞し、旧友イザーク・フォン・ジンクライル(ドイツ語版)の住むフランクフルト近郊ホンブルクに移った。この頃、戯曲『エンペドクレス』の執筆をはじめる。ズゼッテとはその後も手紙のやり取りを続け、1か月に1度ほどの頻繁な会合を続けた。

1800年5月、シュトゥットガルトの富裕な織物商ゲオルク・クリスティアン・ランダウアーのもとに数か月滞在、安息のうちに「パンと葡萄酒」「シュトゥットガルト」「メノン ディオティーマを悼む」などの詩を執筆する。


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