1779年からニュルティンゲンのラテン語学校に通った後、1784年10月に国家試験を受けてデンケンドルフ初等僧院学校に入学、1786年から上級課程にあたるマウルブロン校に通った(マウルブロン校はおよそ100年後にヘルマン・ヘッセが通う神学校であり、ヘッセはここからの脱走の過程を『車輪の下』で描いている)。在学時ヘルダーリンはクロプシュトック、シラー、オシアンなどの詩を読み、自らも多くの詩を作った。ことにシラーに関しては、その詩風のほかに美学論文からも多大な影響を受けている。
1788年、テュービンゲン大学神学校に入学する。同級生であったヘーゲル、シェリングと親交を結んだ。2人とともにカント、ライプニッツ、スピノザの哲学を学び、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの『スピノザ書簡集』を通じてスピノザの汎神論に感銘を受けている。1789年にはフランス革命に感動し「自由賛歌」「友情賛歌」などの長詩を書いた。
1791年、ゴットホルト・フリードリヒ・シュトイドリーンによる『1792年版 詩神年鑑』に「調和の女神への賛歌」など数編の詩が掲載され、詩人としてのデビューを飾る。翌年の『1793年版 詩歌選』にも多数の参加が掲載された。1793年5月には『ヒュペーリオン』の第一稿(現存しない)をシュトイドリーンの前で朗読している。 1793年6月に大学を卒業, 聖職に就くことを拒否し、シュトイドリーンの推薦によってシラーに紹介され、シラーの友人でヴァルタースハウゼン
家庭教師時代
1796年、フランクフルトの銀行家ヤーコプ・ゴンタルトの長男ヘンリーの家庭教師となる。ゴンタルト家の夫人ズゼッテ(ドイツ語版)に強い愛情を抱き、彼女は『ヒュペーリオン』における運命の女性ディオティーマのモデルとなった。1798年春第1巻がコッタ出版より刊行されている。この時期フランクフルトでシェリング、ヘーゲルと再会し、論文断片「ドイツ観念論最初の体系計画」を共同で執筆した(1796年末 - 1797年2月頃)。しかしゴンタルトがヘルダーリンと夫人との恋愛に気付くようになり、1798年に家庭教師を辞し、旧友イザーク・フォン・ジンクライル(ドイツ語版)の住むフランクフルト近郊ホンブルクに移った。この頃、戯曲『エンペドクレス』の執筆をはじめる。ズゼッテとはその後も手紙のやり取りを続け、1か月に1度ほどの頻繁な会合を続けた。
1800年5月、シュトゥットガルトの富裕な織物商ゲオルク・クリスティアン・ランダウアーのもとに数か月滞在、安息のうちに「パンと葡萄酒」「シュトゥットガルト」「メノン ディオティーマを悼む」などの詩を執筆する。