1781年、シラーは処女作『群盗』を匿名にて発表する。この作品は疾風怒濤時代の理想に燃える青年としてのシラーの、自由への願望と正義心の現れたものである。 権力に反抗する崇高な犯罪者を主人公としたこの作品の上演は観客に強烈な衝撃を与え、初演のマンハイムの舞台(1782年1月13日)ではとりわけ若者の観客たちによって熱烈に支持され、拍手喝采と歓声が鳴り止まなかった。また、大勢の観客が高揚のあまり失神したという。領地外に出ることをカール・オイゲン公に厳しく禁止されていたにもかかわらず、マンハイムの初演の舞台には作者シラー自身も秘密裏に赴いていた。しかし、この行動によってオイゲン公から目を付けられたシラーは、14日間の独房生活のあげく、以後は医学書以外の著作活動を一切禁じられ、半ば幽閉のような生活を強いられた。
また、1781年から82年にかけてシュトゥットガルトで軍医として従軍を経験している。 1782年9月22日から23日の未明にかけて、シラーは友人のアンドレアス・シュトライヒャー(Andreas Streicher,1761-1833)とともにシュトゥットガルトを出奔する。そして、まずはマンハイムへ赴く。 マンハイムでは『ジェノバのフィエスコの反乱(Die Verschworung des Fiesco zu Gunua)』(1783)を書き上げ、朗読している。その後、フランクフルト、オッガースハイム、バウエルバッハへと移る。 亡命生活の困窮の中で、身分違いの恋の顛末を描いた市民悲劇『たくらみと恋 (Kabale und Liebe)』(1784)を書き上げ、続いて宮廷を舞台とした戯曲『ドン・カルロス』(1787)の執筆を開始する。またこの間、戯曲のみならず詩・評論・歴史書も数多く著す。 1783年8月、ふたたびマンハイムへ戻り、劇場お抱え詩人として働くことになる。ここでシャルロッテ・フォン・カルプと知り合う。『たくらみと恋』、『フィエスコの叛乱』を上演した後、シラーは『ドン・カルロス』執筆に難渋し、マンハイム劇場との契約を解除される。これにより、シラーはいよいよ路頭に迷うこととなる。 この苦しい生活を支えたのが、シラーの生涯の友クリスティアン・ケルナー
亡命生活
生涯の親友ケルナーケルナーの肖像「フリーメイソン#フリードリヒ・フォン・シラー」も参照
ケルナーと婚約者ミンナとその姉ドーラ、ケルナーの妹夫婦の5人は詩や戯曲を愛し、サークルを結成して文芸を楽しんでいた。ケルナーは身分違いの婚約者(ミンナは銅版画職人の娘であった)との結婚を、保守的な父親から反対されており、そのため彼らはとりわけ、身分違いの恋愛を扱ったシラーの戯曲『たくらみと恋』に大きな感動を覚え、1784年にマンハイムのシラー宛に匿名でファンレターを送る。
シラーはその手紙に対し、すぐには返事を出さなかった。しかし、それから半年経った1785年、シラーは自分に熱烈なファンレターを寄せていたライプツィヒ在住の青年たちのことをふと思い出し、自分の置かれている困窮状態を明かす。匿名の相手に金銭の無心をするほどまでに当時のシラーの生活は切迫していた。これを機にふたりは文通をはじめ、何度か手紙のやり取りをした後、ついにシラーはケルナーを頼ってライプツィヒへおもむくことを決意する。
シラーは1785年4月にライプツィヒに到着するが、折りしもケルナーは不在であった。しかし、ケルナーの文芸サークルの仲間たちはシラーをまるで旧知の親友のように手厚くもてなしたため、彼を大いに感動させた。その後シラーはケルナーの住むドレスデンへと赴き、そこでケルナーとの初めての面会をはたす。ケルナーとその周囲の人達は以後、シラーの生活を全面的に支援することになり、シラーはドレスデンのケルナーのもとに身を寄せる。彼らの無償の暖かな歓迎に感激したシラーは、のちにベートーヴェンの『第九』交響曲の歌詩として名を馳せることとなる『歓喜の歌』(An die Freude)を作り、友情の素晴らしさと自らの素直な喜ばしい心情を詠み込んだ。
ケルナーとの交友関係は、精神面でもシラーに与える影響が大きかった。シラーは美学者でもあるケルナーと手紙を頻繁に交換し、それによって美学や文芸理論の素地を養っていき、みずから美学論文を書くにいたった。また、ケルナーは自身も作家であり編集者でもあった。彼はシラーの死後、初の『シラー全集』(1812-15年、全12巻)を出版し、シラーの義理の姉カロリーネ(Caroline von Wolzogen)とともにシラーの伝記を執筆した。 1787年7月、シラーは若き領主カール・アウグスト公が治めるヴァイマル公国へ赴き、ヴィーラントとヘルダーに出会う。
歴史学とカント研究