フリードリヒ・パウルス
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1940年9月、ソビエト連邦へ侵攻するバルバロッサ作戦の立案に参画[10]。1941年4月、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団を督戦のため北アフリカおよびイタリアに出張[7]。バルバロッサ作戦が実行に移され独ソ戦が始まった直後の8月、ウクライナの前線にライヒェナウ元帥を訪ねたが、そこで再び赤痢に罹っている。

1942年1月装甲兵大将に昇進[11]。それと同時に、以前から誼のあったライヒェナウ元帥が急死、その推薦によりライヒェナウが指揮していた第6軍(第10軍を改組)の司令官に任命された[12]。軍歴は一貫して参謀畑で連隊長も師団長も経験したことのないパウルスの任命には異論もあった[13]。前任者のライヒェナウが陣頭指揮のタイプだったのに対し、パウルスの指揮は「デスクワーク」と評された[14]。就任して最初の命令は、ライヒェナウが下したソ連軍政治将校の即決処刑命令「コミッサール指令」の撤回だったが、参謀達に無視された。
スターリングラード

就任後の第二次ハリコフ攻防戦では戦功をあげ、批判者を沈黙させた[13]。ついで1942年夏、ブラウ作戦が発動され、第6軍はスターリングラードを包囲した[15]。ヒトラーはこの都市の占領に固執し、完全占領を命令した。両軍は、熾烈な市街戦に兵力をつぎ込んだが、ドイツ軍の補充は、10月以降不十分であった。11月19日に、ソ連軍がウラヌス作戦で、反撃に出た時点で、ドイツ軍は市街地の約90%を占領していた[16]。パウルスは、戦線を保持できず包囲される可能性が高いので、即座の行動の自由(脱出)を求めたが、ヒトラーもマンシュタインも誰もすぐには回答しなかった[17]。23日には、ソ連軍の反攻部隊はカラチで手をつなぎ、第6軍など約33万人が包囲されてしまった。24日には、空軍の”空輸はやれると思う”という回答を当てにして、ヒトラーは、パウルスにボルガ河戦線の維持を命じた[18]

1942年12月12日には、第6軍を救出するための「冬の嵐」作戦が始まった[19]エーリッヒ・フォン・マンシュタインによる第6軍救出の試みは、パウルスが参謀長のアルトゥール・シュミット少将に押される形で、脱出作戦の実施について非現実的なさまざまな留保条件をつけ、それをヒトラーが追認する形で拒否した為、第6軍は脱出行動をおこすことなく、失敗した。赤軍に降伏した直後のパウルス。後ろに続くのは参謀長アルトゥール・シュミット中将と副官ヴィルヘルム・アダム大佐

1943年1月、上級大将に昇進[19]赤軍の攻勢を受けて、何度か降伏許可を求めたパウルスに対して、ヒトラーは2月に救出作戦を行うと回答。しかし補給用飛行場も次々に失い、最後はパラシュート降下による補給しかなくなった第6軍に先はなかった。

1月30日ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた[19]。かつてドイツ軍の元帥で降伏した者は一人もおらず、その意味するところは、「捕虜になるよりも自決せよ」ということであった[20]。しかしながら、クリスチャンのパウルスは自決を拒み、1月31日、南部ポケットの将兵9万人とともにソ連軍に降伏した[20]
捕虜、戦後

パウルスは、ソ連の捕虜となった後はヴィルヘルム・ピーク(のちの東ドイツ初代大統領)の説得を受け、ナチスに対する強い批判者となって、ドイツ共産党の指導する自由ドイツ国民委員会ドイツ将校同盟に名を連ねた[21]。彼はスターリンにソ連に居るドイツ人捕虜からなる「ドイツ解放軍」結成を申し出たが、反応はなかった。捕虜収容所にいるかつての部下たちの中にはこの翻身を忌み嫌う者も多かった。ドイツが捕虜としていたスターリンの長男(ヤーコフ・ジュガシヴィリ)と捕虜交換する案がドイツから提示されたが、ソ連が拒否したため実現しなかった。ドイツにいた彼の妻子は逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られた[22]


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