フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン
[Wikipedia|▼Menu]
シュトイベンの訓練は軍隊に必要とされる技術的な知識を大陸軍の兵士にもたらすことになった。
求職活動

シュトイベンが33歳になった1763年、ほんの思いつきで陸軍大尉のまま除隊した。翌年、ホーエンツォレルン・ヘッチンゲンの王宮で執事となった時に男爵号を贈られた。シュトイベンは、廷臣として1771年にお忍びでフランス王国へ行く王子に同行した。この時は借金できることを期待していた。資金造りに失敗し、負債を抱えたまま1775年にドイツに帰った。運命を変えるべく仕事を求めて、シュトイベンはオーストリアや、バーデン、フランスなどの国外軍隊に求職活動を行った。シュトイベンは、パリベンジャミン・フランクリンが居るのを知って、アメリカの大陸軍ならば仕事が見つかるに違いないと思った。

シュトイベンは1777年の夏にパリに行った。幸運にも、シュトイベンはフランス陸軍長官のクロード・ルイの紹介状を得た。ルイはプロイセンの参謀本部員として訓練に関わったシュトイベンの潜在的な能力を十分認識していた。フランクリンからワシントンに宛てた手紙の中では「プロイセン王に仕えた中将」とシュトイベンの軍歴にしては大げさな言い方で紹介された。シュトイベンは旅行費用を集めてマルセイユから出港した。1777年9月26日ニューハンプシャーポーツマスに到着し、12月1日にはボストンで法外に歓待された。大陸会議は当時フィラデルフィアを追い出され、その年の冬と翌1778年2月5日にはペンシルベニアヨークで開かれていたが、シュトイベンもこれに同行した。大陸会議は当面無給でシュトイベンの志願を認め、2月23日バレーフォージにいたワシントンに付くように指示した。シュトイベンは英語を話さなかったが、フランス語で何人かの将校と話ができた。アレクサンダー・ハミルトンナサニエル・グリーンはこの面で大きな助けになった。この二人はシュトイベンが兵士の訓練計画を作るのを助け、3月には総司令官の許可を取り付けた。

1781年シュトイベンはイギリス軍ジョン・アンドレ少佐に対するスパイ容疑で軍法会議に出席した。同年、少将としてヨークタウンの包囲戦に参加した。独立戦争の終了後、シュトイベンは幾つかの州から土地の提供申し出を受けたが、最終的に大陸会議が年金$2,500ということにした。シュトイベンは1783年にアメリカ市民となった。
訓練の方法フォン・シュトイベン男爵

シュトイベンはアメリカ合衆国建国の父の一人と考えられている。監察官に指名され、軍隊を作り、その組織を再構築し、優秀な参謀を養成し、火器の比率を改善する戦術マニュアルを揃えた。これらの多くは今日にいたる軍組織構造に生かされている。

シュトイベンの訓練方法は「模範中隊」を作ることだった。この100名の選ばれた者達がそれぞれの連隊に帰ってその中で機能的に働きかけていくことになる。シュトイベンの幅の広い人間性がその神秘的雰囲気をさらに強めていた。シュトイベンは満足に服も着られない兵士の訓練にあたっては、きちんとした軍服に身を包みドイツ語やフランス語で兵士をののしり、大声を掛けて行軍させた。これがもはや成功しないような時は、フランス語の話せるベンジャミン・ウォーカー大尉を連れて来て、英語でののしらせた。訓練も受けずに新兵を配属するような習慣を止めさせ、兵員学校から始めて連隊学校に進ませる事前訓練の制度を導入した。各中隊の指揮官には新人の訓練に責任を持たせたが、実際の指示は選ばれた軍曹達にやらせた。

18世紀の戦闘方式は、一度戦闘に入ってしまえば比較的単純であった。近距離の戦闘では一斉射撃が用いられたので、発砲する速度が重要であった。敵の戦列より速く銃を撃つことが正確さよりも重んじられた。規則の多くは武器と火器の鍛錬を扱っていた。しかし、戦闘は接近戦の鍛錬のたまものであり、発砲の速度は弾込めや発砲が機械的にできるまで取扱いに慣れた兵士によってのみ改善可能であった。

発砲は8つ数える間に12の動き(モーション)を行うことでなされた。

Fire! 「撃て」 1モーション

Halflock! 「撃鉄起こせ」 1モーション

Handle - Cartridge! 「薬包取れ」 1モーション

Prime! 「火薬詰め」 1モーション

Shut - Pan! 「蓋閉じよ」 1モーション

Charge with Cartridge! 「弾込め」 2モーション

Draw - Rammer! 「衝き棒取れ」 2モーション

Ram down - Cartridge! 「衝き棒衝け」 1モーション

Return - Rammer! 「衝き棒抜け」 2モーション

複雑なように見えるが、この新しい銃器取扱い方法は他国の軍隊で使われているよりも単純であり、かなり速度を上げることができた。アメリカ独立戦争当時の戦闘の大半は立ち姿勢でのろのろとしたものであった。勝った方は最初の一斉射撃に成功した方であり、反撃をかわし敵よりも速く弾込めできた方であった。一度兵士がそのマスケット銃の扱いを身に付けたら、3人のグループに付けられ、続いて12人のグループに付けられ、回転して右と左にならって列を作るように教えられた。列を作ることと列にならうことが強調され、適切な整列が順調な発砲に必要とされた。

シュトイベンは宿営地の衛生管理についても新たな計画を立てた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef