フリートウッド・マック
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ピーター・グリーンは、体調が不安定な状態で臨んだミュンヘンのとあるギグでLSDを使用して精神疾患を発症。1970年に突如バンドを離れてしまった。グリーン離脱後、バンドは、主にジェレミー・スペンサーが音楽面をリードして活動を続け、同年に4thアルバム『キルン・ハウス』を発表した。しかしスペンサーもドラッグで徐々に精神的に不安定な状態となり、新興宗教にはまって脱退してしまう。

スペンサーの後任には、ジョン・マクヴィーの妻で元チキン・シャッククリスティン・マクヴィー[注 2]と、オーディションによりアメリカ人ギタリストのボブ・ウェルチが加入し、1971年に5thアルバム『フューチャー・ゲーム(英語版)』を、翌1972年には6thアルバム『枯れ木(英語版)』を発表した。従来のブルース色を弱めロック色/フォーク色を強めたこれらの作品は、主にダニー・カーワンが音楽面を主導して制作された。しかしそのダニー・カーワンも、酒癖が原因の神経衰弱によりメンバーの信頼を失い、脱退を余儀なくされた。

カーワンの解雇を経てバンドの音楽的主導権をウェルチが握ると、マックは、クリスティンのよりポップ/ロック色の濃い楽曲や、ウェルチの強い影響下で3枚の優れたアルバムを発表し、60年代とは別のバンドへと変化していった。この時期を代表する曲としては、ウェルチ脱退後もライブで演奏されていた「ヒプナタイズド(英語版)」、1977年にウェルチのソロ作としてヒットした「悲しい女(英語版)」などがある。後日にウェルチは「(『神秘の扉(英語版)』当時の)ウェルチ、クリスティン、ジョン、ミック、ボブ・ウェストン(英語版)のラインアップが団結していた時は、後の『』時代のラインアップに勝るとも劣らなかった」と回想した[8]

この時期、バンドとしての活動はコンスタントに続けていたが、度重なるメンバー・チェンジや、アメリカにおける「偽フリートウッド・マック全米ツアー騒動」等、困難の多い時代でもあった。1974年、アメリカ・ツアーを終えたマックは、彼らのこれからの活動をアメリカ中心にするべく、活動拠点を米国カリフォルニアに移した。しかし、その直後、フロントマンのウェルチが脱退。バンドは存続の危機を迎える。
全盛期/1975-1977年1977年のグループショットドイツ・フランクフルト公演 (1977年)

ウェルチに代わるフロントマンを探していたミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーは、バンドの新作のレコーディング・エンジニアのオーディションを通じて「バッキンガム・ニックス(英語: Buckingham Nicks)」というアメリカ人の男女デュオの作品を耳にした。リンジー・バッキンガムのギターとヴォーカルに強い関心を持ったミックは、1974年12月、リンジーと電話で連絡を取りバンドに誘った。リンジーは、バンドに合流するにあたり、ガール・フレンドでありデュオのパートナーでもあるスティーヴィー・ニックスを同行することを提案し、結局グループは、この二人をセットで新メンバーとして迎え入れることになった。

男女のポップ・ロック・グループとなったマックは、1975年に10thアルバム『ファンタスティック・マック』を発表、「セイ・ユー・ラヴ・ミー」、「リアノン」といったヒット曲が生まれ、アルバムは全米1位を獲得、それまでにない成功を収める。安定したピアノ演奏と、ブルースロックにルーツを持つクリスティン、ポップ・センスのある曲を書くギタリスト・リンジー、可憐で小悪魔的な容姿の歌手スティーヴィーという三者による楽曲は、バンドの大きな魅力となった。

1977年には、最大のヒット作となる11thアルバム『』を発表。シングルカットされた「オウン・ウェイ(英語版)」「ドリームス」(グループにとって唯一の全米1位シングル・Billboard Hot 100)「ユー・メイク・ラヴィング・ファン」、「ドント・ストップ」などの大ヒットとともに、アルバムは31週間に渡って全米1位(ビルボード)(1977年・年間チャート1位・Billboard Top 200)に輝き、1,700万枚といわれる史上空前のセールスを記録する。マックは一躍スーパースターの座に上り詰めた。翌年には同アルバムでグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞[9][10]
安定期/1978-1987年

この後、12thアルバム『牙 (タスク)』(全米4位)、『ライヴ』、13thアルバム『ミラージュ』(全米1位) の3枚のアルバムを発表したが、『噂』のような大ヒットにはいたらなかった。しかしワールドツアーは盛況を重ね、観客動員の面ではスーパースターのポジションを維持し続けた。

1980年代に入るとメンバー各自のソロ活動が活発化し、全米アルバムチャートでNo.1を記録したスティーヴィーの作品を筆頭に、リンジー、クリスティンも、それぞれソロでTOP10ヒットをものにする。ミックも、アフリカのミュージシャンを起用した意欲的なソロアルバム『The Visitor』を発表した。

しかし、バンドとしてもソロとしても順調に活躍していたこの時期のマックには、メンバー同士の関係の悪化、スティーヴィーの薬物中毒克服のためのリハビリ施設入り、バンドのゴタゴタや妻との離婚、父の死など公私にわたるトラブルに疲れ切ってコカインブランデーに溺れたミックの破産など、バンド周辺でトラブルが絶えない、暗い側面が同時に存在していた。

久々に全員が揃った1987年の14thアルバム『タンゴ・イン・ザ・ナイト』(全米7位)では、音楽面におけるリンジーの献身的な貢献もあり、いつも通りのヒットを記録したが、アルバム発表直後にそのリンジーが脱退。ライブツアーは、新メンバーとしてリック・ビトー(英語版)、ビリー・バーネット(英語版)のギタリスト2名を加えた新編成で行われた。この時のライブでは、バック・ボーカルやキーボードにサポート・メンバーを使い、クリスティンのボーカル曲では彼女をステージの前面に出したり、スティーヴィーのソロ・ヒット曲「スタンド・バック(英語版)」を取り上げるなど、リンジーの不在をクリスティンと、特にスティーヴィーを大きくフィーチャーすることで補う演出がされていた。
停滞期/1988年以降

1990年には、スティーヴィーとクリスティンが今後バンドのライブツアーに参加しないことを表明。1990年発表の15thアルバム『ビハインド・ザ・マスク』(全米18位)は、1975年のアルバム『ファンタスティック・マック』から続いたゴールド・ディスク獲得を逃した。


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