トートらの業績として重要な点は、今日ではアウトバーン建設局において美しいデザインを実現するためのシステム作りが行なわれたこととして知られる。国内にアウトバーン管理局のもとに上級建設管理事務所OBKを設置、それぞれの事務所に建築家を配置することとし、これによって、似たような単一のデザインが繰り返されることを防止した。さらに15のOBKで実施したデザインはすべてシェヒテル、ボナーツの所属するベルリンの管理局に送られ、審査を受けたのち指摘事項を文書やスケッチによって通知される仕組みとした。このように中央でデザインを管理することによって、有能な建築家、エンジニアや造園家の発見と育成が行なわれた。トートの墓
一方、橋梁のデザインだけではなく、道路のデザインについても危惧を抱いていたトートは、ザイフェルトに手紙を書き、ミュンヘンとホルツキルヒェンを結ぶ20キロメートルのアウトバーンの建設に際し、ランドスケープの観点から道路を造形することの重要性を説く一方、建設局の造園家として協力してくれるよう要請した。手紙には、失われたドイツのランドスケープを再生をさせるために、法面勾配をこれまでの1:2.5勾配から1:3.0勾配に変更し、その地域に適した植栽を行うことや、法面を自然の造形にするために、グレーディングや法肩の角をまるくするラウンディングを提案。さらに、ドライバーの立場に立って、運転の快適性を高めるため、エンジニアリングにクロソイド曲線を導入することや、視線誘導や対向車線の灯火を遮蔽する機能を有する植栽の在り方を論じた。こうして、アウトバーン建設局において、建築家、エンジニア、遥園家による協力体制ができあがった。
ドイツにおける国家プロジェクトは、鉄道建設プロジェクトをはじめとして数々あったが、アウトバーンの建設プロジェクトほど計画初期段階から明確なコンセプトを持ち、その実現のための実施方法が建築家、造園家等の様々な視点から検討され、その思想や手法が広く広報されたプロジェクトはなかったと、トートはアウトバーンのプロジェクトを讃えたが、一方ではそれがヒトラーの政権下において国家の威信を示すために計画されたプロジェクトであり、失業者対策のために建設需要を喚起する(公共事業)という経済的な背景と、国民が一丸となってプロジェクトを支持する政策的プロパガンダが不可欠であったという背景もあった。
フリッツ・トートを扱った作品
小説『ヒトラーの建築家』(作者:東秀紀 日本放送出版協会)
関連項目
四カ年計画
アルベルト・シュペーア
ヘルマン・ギースラー
遣独潜水艦作戦
テクノクラート
Reichsautobahn(戦前に建設されたアウトバーン網)
外部リンク
⇒Hitler's oration at Todt's funeral
フリッツ・トート - Find a Grave(英語)
公職
先代
創設ドイツ国軍需大臣
兵器・弾薬大臣
初代:1940年 - 1942年次代
アルベルト・シュペーア
軍需・軍事生産大臣
表
話
編
歴
ヒトラー内閣
(1933年1月30日 ? 1945年4月30日)
大統領
パウル・フォン・ヒンデンブルク(1934年8月2日に死去。以降大統領位は空位だが、ヒトラーが国家元首の地位を吸収した。)
総統
アドルフ・ヒトラー(指導者兼首相)
副首相
フランツ・フォン・パーペン
外務相
コンスタンティン・フォン・ノイラート
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
内務相
ヴィルヘルム・フリック
ハインリヒ・ヒムラー
財務相
ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
経済相
アルフレート・フーゲンベルク
クルト・シュミット(英語版)
ヒャルマル・シャハト
ヴァルター・フンク
航空相
ヘルマン・ゲーリング
労働相
フランツ・ゼルテ
法務相
フランツ・ギュルトナー
フランツ・シュルクベルガー(英語版)
オットー・ゲオルク・ティーラック
国防相
ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
国防軍
最高司令部総長
ヴィルヘルム・カイテル
運輸相
パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ
ユリウス・ドルプミュラー
郵政相
パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ(兼任)
ヴィルヘルム・オーネゾルゲ
食糧相
アルフレート・フーゲンベルク(兼任)
リヒャルト・ヴァルター・ダレ
ヘルベルト・バッケ
宣伝相
ヨーゼフ・ゲッベルス
教育相
ベルンハルト・ルスト
軍需相
フリッツ・トート
アルベルト・シュペーア
宗教相
ハンス・ケルル
ヘルマン・ムース(代行)
東部占領地域相
アルフレート・ローゼンベルク
ベーメン・メーレン保護領
担当国務相
カール・ヘルマン・フランク
無任所相
オットー・マイスナー
ハンス・ハインリヒ・ラマース
ルドルフ・ヘス
エルンスト・レーム
ハンス・フランク
アルトゥル・ザイス=インクヴァルト